「お金から見た幕末維新」渡辺房男著 2015年12月20日 吉澤有介

—財政破綻と円の誕生—
260年続いた徳川幕府が倒壊したのは、慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いがきっかけでした。しかし、前年に成立したばかりの新政府も、緒戦には勝利したものの、その中核は薩長土佐などごく少数の藩でしたから、たちまち軍資金が底をついてしまいました。その財産は、どうかき集めても国内全体の石高3000万石のわずか0,3%に過ぎなかったのです。江戸開城によって、幕府直轄領、旗本御家人の知行地を抑えても、まだ全国の石高の75%を占める諸藩は屈服していませんでした。戊辰戦争を遂行するための資金調達が最大の課題となり、新政府は軍資金を集める機関として、現在の財務省の前身である金穀出納所を設立しました。そこに献金したのが三井、小野、島田などの大両替商たちで、総額は1万両でした。現在の約1億5千万円に相当します。とくに三井組は新政府の金庫番として官軍の進撃を支えましたが、とても賄いきれるものではありません。
そこで新政府は、急場を凌ぐために江戸にあった旧幕府の金座、銀座、銭座を接収して、旧貨幣の鋳造を始めました。二分金、一分銀や銅貨などです。さらに大坂でも豪商住友屋敷でも鋳造し、その額はあわせて604万両にも達しました。しかしその品質は、旧幕時代より価値は2割も低いという劣悪なものでした。その上偽金までも登場したのです。諸藩が苦し紛れに密造したものでした。函館戦争が終わり、東京に遷都した明治2年、新政府はその混乱した貨幣の処理に追われることになりました。とりあえず外国人には正規の金貨と交換し、日本人には政府発行紙幣の太政官札と交換することにしたのです。
もともと旧幕時代には、江戸などの東国では、1両、2両などの金貨が流通し、大坂などの西国では、銀何匁という銀貨が流通していました。その相場は常に変動し、両替商が著しく財力を蓄えてきたのです。新政府は、諸外国との通商関係構築のため、まずこの通貨制度の統一を目指しました。金目表示の貨幣に統一すべく、銀目廃止令を布告したのです。これは大坂商人たちに大きな衝撃と混乱を引き起こしました。信用経済が発達していた大坂の両替商の多くが倒産しました。多額の貸付けをしていた西国大名との交渉も厳しかったのです。両替商たちは結束して、必死の思いで巻き返しを図りました。東征軍への献金の功績で新政府も妥協を迫られ、布告の内容は二転三転して、交換レートを1両銀102匁としてようやく決着しました。しかし多様な古金銀の品位の鑑定が大きな問題でした。
それは京の金座に設立された貨幣分析所で実施されました。実務を担当したのは、美濃大垣藩の豪農だった久世治作でした。若くして化学を修めた専門家で、後に大隈重信とともに新貨幣(円)の鋳造の立役者になっています。その分析は精緻を極めたものでした。
円という単位は、明治4年の大阪造幣局開設に当たって、貨幣を円形にしたこと、香港からの設備の購入時に、すでに円の型があったことなどの諸説がありますが、十進法も含めた大隈重信らの提言が通ったのです。また乱発された太政官札、それ以前からの諸藩の藩札の処理も難行の末、新紙幣の円に統一されてゆきました。大隈の後継の松方正義による日銀の創設で、金本位制の兌換日銀券が発行されたのは明治18年のことでした。「了」

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