日本の国を作った天皇 2015年4月11日 福島 巖

  記紀をじっくり読んでいるとあらゆるところにフィクションが組み込まれていてそれを解いていくと本当の姿が浮かび上がってくる。日本の最初に国を作ったとされる天皇は神武と崇神、応神の神の名が付く3人もの天皇がいることになっている。どう考えてもおかしいと考えた。そして追及して行ったら大伽耶の王子ツヌガアラシトの5代目が景行天皇で彼が国内をまとめるべく立ち上がったのが最初であることが分かってきた。そして彼の息子が日本武尊であり武内宿祢である。天皇としては仲哀として軽く扱われているが彼こそ日本をまとめた中心人物である事が分かってきた。
- ツヌガ王朝王朝の誕生 -
大和とは関係なく4世紀、北九州には二つの王朝が存在していた。伊都国と呼ばれていた天照系を引き継ぐ神武王朝とツヌガアラシトを起点にして景行天皇を生み出したツヌガ王朝である。この王朝の仲哀天皇のとき敵対する諸豪族をまとめあげてほぼ国の形を作り上げて息子の応神天皇に渡した。神武系の第10代崇神天皇は大和に作られた大和王朝の初代の王とされているが仲哀天皇に九州で降伏した姿が浮かび上がってきている。
従って大和王朝の初代天皇は仲哀天皇であることが明瞭になってきた。詳細は別にレポートしますが大筋は以下の内容である。

(1) ツヌガアラシト一族の動き
大伽耶の王子が日本にやってきた話は記紀などには重要事項として取り扱われている。要約すると
「大伽耶国皇子の来日はあちこちを探索した後但馬国に落ち着いた、出石(いずし)に住み着いた彼は勢力を築いて豪族但馬氏を作り上げた」
初代ツヌガアラシトが豊岡の但馬・県主マタノオの娘を娶って息子但馬モロスケを生んだ。孫が但馬ヒメ、曾孫が但馬ヒナラキである。5代目に但馬モリ、但馬ヒタカ、但馬キヨヒコの3人が生まれていた。書紀ではキヨヒコが垂仁天皇に神宝を見せろと要求されて見せる話や宝物の一つ刀剣がどこかに消えてしまったが淡路島に忽然と現れた話が載っている。
(2) 但馬モリの秘話から正体が景行天皇であることがばれる
垂仁天皇に橘(タチバナ)の実(みかん?)を所望され常世の国に去る話が書かれている。神仙な秘密の国で橘を探しまくって10年たっても帰って来れなかった。万里の荒波を越えてやっと帰ってきたら天皇は既に亡くなっていて生きている意味がないと嘆き悲しんだとある。垂仁天皇陵の大きな古墳の中にタジマモリの墳墓と称する小島が存在している。日本書紀の記述を忠実に再現したものと思われる。

日本書紀の景行記を読んでいて驚いた。景行天皇は紀伊の国への行幸を計画し、占うと凶と出たため中止にした。代わりに屋主忍男武雄心命を派遣した。彼は紀伊の阿備の柏原にて神祇を祀った。9年間住んで紀直の祖ウジヒコの娘カゲヒメを娶って武内宿祢を生ませたと書いてある。常世の国とは紀州のこと、10年もここに住み着いて現在の和歌山市の開墾をやっていたものと見られる。天皇の代理で派遣された人は景行天皇の本名そのもの「忍男武雄心」であった。この記述で「タジマモリ=景行天皇」であることがはっきり証明できた。
注1)景行天皇はAD330年、垂仁天皇は370年代を中心に活動した人物で垂仁が先に亡くなることは考えられない。
(3) 仲哀天皇の誕生地は紀伊の国
但馬守は紀伊の国、紀ノ川が作る現在の和歌山市一帯を開拓していたものと推定される。ここの有力者紀氏を配下に収めた後、姫路から出石に戻り日本海を九州に向けて遠征の旅に出発した。

(4) 景行天皇が各地の小国家を統合していく
朝鮮半島から日本の各地に住み着いた倭人の小国家や中国から直接渡ってきた渡来人の居住地を遠征して統一国家を作っていく行動を開始した。記紀の景行天皇記に記されているように日本各地に遠征し様々な手段で戦争を仕掛けて反対勢力を駆逐していった。征服できた地域の王の娘を妃として娶り子どもを生ませてその小国の管理者にした。

「○○別王」と地域名で表示される王はこのような形で誕生している。美濃、三尾氏(琵琶湖西岸)、讃岐、播磨、伊予、日向、火国などの地に別王として送り出している。作った子どもは80人とされているが景行天皇を引き継ぐのは最初から決まっていて日本武尊(仲哀)のみである。

(5) 景行天皇の九州遠征
但馬から周芳(山口県)に着いた時から南方九州に不穏な空気を察して軍を進めた。大分県竹田市辺には土蜘蛛がいて大きな戦闘になった。平定した場所には健男神社が残されている。日向には熊襲タケルという強勇な軍勢が待ち構えていた。女を使って騙して打ち取り6年もかけて襲の国を完全に平定した。美人のミハカシ媛を妃にして豊国別王(日向国造の祖)を生んだ。

西都原にある古墳群はこの日向国造一家のもの、その中で圧倒的な存在感を示しているのが一対の男狭穂塚(帆立貝型円墳)と女狭穂塚(前方後円墳)である。私はこれが景行天皇とミハカシ妃の陵墓と推定している。彼の後続の王は大和に移ってしまい1代だけで王位の存在はなくなってしまった。タケルに指示して東国を征伐させた。その平定した国々を巡行したいと上総や安房の国を訪れている。日向の彦狭島王(豊城命の孫)を東山道15ケ国の都督に任じたが病気で任地に行けなかった。息子が東国に赴任して善政を敷いたので東国の平安を保つことができた。また佐賀県に武雄市が存在しているがここから吉野ヶ里を攻略し組み込んでいったものと思われる。(記紀に記載はないが)
(6) 日本武尊の誕生
偉大な王仲哀天皇はタケルであり武内宿祢でもあった。
a.小碓(コウス)命がヤマトタケルである。16歳の時九州の熊襲建兄弟の討伐を父親から命じられる。この遠征が終了するや否や今度は東国の焼津、甲斐、信濃、上総など多くの従っていない国々を攻略することを命じられる。焼津の焼き討ちや上総に渡る船の事故(オトタチバナを入水で失う)など多数のエピソードがあった。尾張の国造家ミヤズ媛と婚約し尾張や美濃を支配下に収める。伊吹山で神と対決して死亡・・白鳥となって大和に帰った。
b.成務天皇に生まれ変わり。景行の第4子になっている。同日生まれの武内宿祢を大臣とした。ほとんど記録も残らない架空の天皇である。
c.仲哀天皇・・・日本武尊の第2子になっている
息長帯媛を皇后にした。妃のオオナカツ媛との間にはカゴサカ王子とオシクマ王子を設けている。敦賀の気比の宮に住んでいた。熊襲が叛いたとの報に接して日本海を南下し穴門(アナト、下関)の豊浦宮(現:忌神社)に住まわれた。筑紫に出かけた時、岡県主の祖ワニ氏が大きな船に榊を立て上枝に鏡を懸け、中枝には十握剣(トツカノツルギ)、下枝には八尺瓊(ヤサカニ、玉)をかけてサバの浦にお迎えした。

同時期に筑紫・伊都の県主五十迹手(イトテ)が天皇が来られていることを聞いてワニ氏同様船を飾りたて穴門の彦島にお迎えした。そして「この物を奉るのは天皇が天下を平定し、上手に治めるようにとの願いからです」と申し上げた。その後天皇は博多にある香椎宮(カシイグウ)に移られて執政を行った。

d.武内宿祢の再度の登場
皇后神功が熊襲退治よりも神が言われる新羅を攻略すべきだと主張した。これに仲哀は反対した。天皇は神に逆らったことが原因で翌日には死んでしまった。後の処理は大臣の武内宿祢が全て取り仕切った。神に逆らうことで簡単に殺してしまい別の人物に置き換える工作をしている。

以上簡単にまとめたが同一人物が日本武尊-成務天皇-仲哀天皇-武内宿祢の4役を演じていることが記録されている。九州から応神天皇を敦賀に送る時も武内宿祢として仲哀天皇が乗船している。垂仁天皇との関係は全くなくこの時期の系統図はフィクションで満ちている。
(7) 神武王朝の存在と崇神天皇の実在性の疑問
魏志倭人伝に登場する伊都国の王が、150年後、伊都の県主として登場している。糸島半島に残る遺跡の痕跡から神武の一族がここを生活の場として国を作っていたことは明らかである。しかし実態は、記紀に記載されているように対外的な活動は一切なく、妃も不在で子供も1~2人だけのつつましい家族構成であった。外からはどこにでもある県主の一つと見られている。九州内の反抗的勢力の統合も景行・仲哀両者の活躍に依るものであり神武朝は祭祀には優れても国を大きく統合するような力には欠けていた。

伊都の県主五十迹手(イトテ)は年代からみて“崇神”王そのものである。第10代大和に国を開いた大王が九州の地で仲哀天皇に降参し許しを請うている姿が浮かび上がっているではないか?
(8) ツヌガ王朝の最盛期・・・仲哀天皇の活躍
大和に開いた崇神-垂仁の大和朝廷はフィクションに満ち溢れている。例えば
a.国内に疫病が多発した話は九州での話題でシルクロードから直接やってきた渡来人がもたらしたもの。
b.四道将軍派遣の話は日本武尊の話をベースにしたフィクションで、将軍たちの行動や起きた事件など一切記載されていない。
c.崇神・垂仁天皇は多くの妃を抱え子供も多数生まれて各地に派遣されたことになっているがこれらの妃や子どもはほとんどが仲哀天皇に属するものである。日本海側特に丹後王国の繁栄は仲哀が中心になってコントロールした結果であって垂仁の及ぼした影響は全くなかった。大和王朝と称する崇神・垂仁天皇は無かった可能性が高いと私は考える。

現在に続く大和王朝は大伽耶の王子ツヌガアラシトの子孫が中心になって作り上げた国家であることがハッキリしてきた。蘇我系の中心人物日本武尊=武内宿祢=仲哀天皇を如何に歴史書から消してしまうか苦労の跡が見られるのでその関係を解説する。

各王朝の存在時期とその関係(番号は記紀の順番)
J:神武王朝  神武(1)~開化(9)
Y:大和王朝  崇神(10)~垂仁(11)(架空の天皇か?)
T:ツヌガ王朝 景行(12)~現代
神武天皇即位 200年、卑弥呼活躍220年、ツヌガアラシト=天ノ日矛の渡来210年と推定できるのでこれらのできごとはほぼ同時期になる。
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垂仁天皇の後に景行天皇が入るので記紀の年代表現は乱れてしまっている。
大和王朝は実質景行天皇が出発点になっているが統一国家を作った初代天皇は仲哀天皇(武内宿祢)と考えられる。その息子応神が初代王として現在も皇室が深い信頼を寄せて宇佐神宮に参拝されていることからも理解できる。

神功皇后の新羅遠征
神功皇后の遠征は卑弥呼を紛れ込ませるための操作であったと思われる。かなり詳細に記録されている三国史記の新羅編に一切記載がない事から明らかである。
では何のための操作であったのか?
壱岐や対馬に行っても神功は至る所に祀られていて実際に現地に出向いた可能性はある。仲哀天皇は亡くなっていることにしているので表には出すことができない。仲哀天皇の支配領域を八幡神社や神功皇后の名前を使って表現しているとみたら良いのではないか。
神功の出身は息長氏であり彼らはツヌガアラシトと一緒に来日して琵琶湖東岸に住み着いた間柄であり親密な関係が構築されていた。

武内宿祢が何百年も生きていた理由
武内宿祢が記紀に最初に登場するのは孝元天皇記(BC214年即位)応神天皇の時まで彼が登場する(AD310年)ので500年近く生きていることになった。正式な記紀の年代記録は全く別の時間軸を使っているので天皇の在位20年として記紀の6世代120年は生きたことになってしまう。しかし実際は景行-仲哀-応神の3世代約60年間に過ぎない。別王朝を縦ににつないだために起きた現象にすぎない。「仲哀」の天皇の名前からしても何か悲しい感じが出てくるがこれは何回も短命で神の祟りで殺されてしまったことに依ると思われる。

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