- 国のかたちをつくったのは誰か -
著者の前著「帰化人」中公新書(昭和40年刊)は、大きな反響を呼びました。天皇陛下も皇太子時代に愛読されたそうです。本書はその続編ですが、「帰化人」という言葉をあらためて吟味し、まだ国のかたちも定かでなかった時代には「帰化」よりも「渡来」が妥当として、古代に活躍した「渡来人」の系譜を、詳細に紹介しています。
1. 秦氏の活躍
秦氏は新羅系です。かってその出自を秦始皇帝とした説もありましたが、これは祖先を誇示する意図的なもので、最近は慶尚北道の古地名にある波旦が有力になってきました。著者は現地の発掘現場を見ています。確認される渡来の時期は、記の応神天皇の条に、秦氏の祖「弓月君」が「参渡り来つ」とあるので、5世紀前後のことでしょう。京都の深草からその遺跡が確認されました。史料に登場した初めは秦大津父で、馬を伴った富豪として、欽明朝に重用されて大蔵省の官人となり、交易や馬の文化に貢献したようです。秦氏は農耕や灌漑、治水などの技術をもとに、6世紀にはその勢力を大きく拡大しました。
また葛野の秦造河勝は推古朝に登場し、厩戸皇子らと軍事や外交で活躍しています。佛教信仰でも、峰岡寺を造立してこれが後に広隆寺となり、国宝第1号の弥勒菩薩を伝えています。秦氏は神社も創建しました。松尾大社と伏見稲荷神社です。稲荷信仰は和銅年間以降全国に広まりました。秦氏は、在地の豪族として活躍してきたようです。
2. 漢氏の行動
漢氏の渡来も、記に「漢直の祖」らが応神朝に「参渡り来つ」とあります。阿知史の祖が、良馬2頭を献じたといいますから、やはり馬の文化を伝えたようです。伽耶から渡来しました。倭漢直(やまとのあやのあたい」は東漢直とも書きます。東漢氏は高市郡を拠点として深く軍事に関わり、歴史に重要な役割を果たしました。崇峻天皇の暗殺には東漢直駒が起用され、同族の坂上田村麻呂は、蝦夷の征討で活躍して著名です。彼は、夫人高子が帰依した賢心上人のために清水寺を建立しました。またその娘は桓武天皇の後宮に入って葛井親王を生んでいます。私の長く住んだ郡山市の隣の田村郡にも名を残しました。
西漢氏は、生駒から西の河内に拠点をおき、文氏として主に記録などを担当しました。その中に百済から渡来した王仁博士がいます。論語などを伝えた賢人で、後世にさまざまな伝承が生まれました。王仁の作といわれる「難波津に咲くやこの花冬ご籠もり」の手習い歌の木簡などが、最近各地で数多く出土しています。
3. 高麗氏の役割
欽明朝に高句麗から渡来しました。そのルートは穴戸(長門)から北ツ海(日本海)を北上し、出雲を経て北陸に上陸したといいます。(日本海という呼び名は、1602年が初)。6世紀前半のことと推定されます。紀の垂仁天皇の条にある加羅の王子ツヌガアラシトが越の国筍飯の浦(敦賀)に渡来したという説話は、古代にそのような経路があったことを示すものです。山背国(山城国)相楽郡には高句麗の使節の迎賓館など、多くの遺跡が発掘されています。そのたびたびの使節は朝鮮半島の大きな動乱を告げるものでした。
663年8月27日、白村江の戦いで、百済の救援に向かった倭の水軍が唐と新羅連合軍に大敗し、百済の国王豊章は高句麗に逃れました。百済滅亡です。天智称制5年(666年)には、唐はさらに高句麗攻撃を開始しました。大津宮への遷都は、近江路から渡来した高句麗使節の急報を受けてのことでした。668年には、高句麗も滅亡します。
高句麗からは王族をはじめとして多くの渡来がありました。高麗王若光は、武蔵国の高麗氏1799人の始祖として崇められ、現在の埼玉県日高市にある高麗神社に祀られています。その子孫高麗福信は、聖武天皇に仕えて武蔵守となりました。
4. 百済王氏の軌跡
紀によると、欽明朝に百済の王であった義慈王の子善光と豊章(章の文字には王偏あり)が渡来しました。豊章はその後帰国して百済王となり、そこで滅亡しましたが、善光はそのまま日本に留まり、天智、天武の官僚として子孫は大きく発展しました。とくに3代後の敬福の活躍が目立っています。聖武天皇に重用され、陸奥守のときに出土した黄金を、東大寺大仏に献上した話はあまりにも有名です。従三位までのぼりました。なお東大寺大仏建立のリーダー国中連公麻呂も百済系です。桓武天皇の生母は百済王氏の娘高野新笠でした。ほかに9人の女人も後宮にあり、桓武朝では百済王氏との関係はいっそう密接なものになりました。石上神宮の国宝七支刀も百済王の世子が倭王のために造ったものでした。文字の伝来にも大きく貢献しています。
5. アメノヒボコの伝承
記紀を初めとする日本の古典には、数多くの渡来伝承が収められています。その代表が、新羅の王子とするアメノヒボコです。和銅5年(712年)に編纂された古事記にすでに記載があります。しかし応神天皇条に渡来したとしながら、その子孫の系譜で4代目のタジマモリが、はるか以前の垂仁朝に常世の国に赴いたという明らかな矛盾があります。
また紀の垂仁天皇2年の条にある、大伽耶国の王子ツヌガアラシトの渡来伝承とも重なっていたりするのです。本書では丹念にその比較をしています。その誕生には、ともに牛が登場し、神石や赤玉が乙女に変化すること、その乙女を追って渡来するまでは共通していますが、大きな違いもあります。渡来の経路をみると、アメノヒボコは、北九州から瀬戸内海、そして難波、宇治、近江を経て若狭に入り、最後に但馬の出石となっています。
ツヌガアラシトは前述したように、敦賀から山背へのルートでした。ツヌガが敦賀の語源かどうか。著者は金官加羅の最高官位の「角干」と、任那国王の「阿利斯等」からではないかという説でした。なお著者は、アメノヒボコを一人ではなく、渡来集団と見ています。鉄と須恵器の文化を伝えた集団と推定するのです。弥生時代の銅剣、銅矛などの青銅文化の後のことだったのでしょうか。播磨国風土記には、韓国から渡来したアメノヒボコが、「客神」として出雲のアシハラシコオ(大国主命)と争ったという説話があります。
本書では、古代国家の形成に大きくかかわった渡来とその文化を深く考察しています。しかしより古代の渡来については、なお探索の余地が大きいように感じました。「了」
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