「縮小都市の挑戦」矢作 弘2015年2月11日 吉澤有介

急激な人口減少と産業衰退のために、都市が「縮小」し、時に破綻しています。縮小都市の時代が来たのです。空き家や荒廃地、廃校など、私たちも身近に見ている現象ですが、これは世界的に拡大しています。都市再生は果たして可能でしょうか。
縮小都市研究は、21世紀を迎えて本格化した新しいジャンルです。その手法としては、まず5W1Hを明らかにすることから始まりました。そこには共通の問題があったのです。著者はデトロイトとトリノの2大都市で、その実情を追っています。
デトロイトは、かって「アメリカの首都である」と呼ばれた時代がありました。20世紀を通じて、自動車産業の拠点都市としてアメリカ経済の成長・発展に、これほど貢献した都市はなかったのです。このモーターシテイは、アメリカ式生活のモデルでした。郊外に暮らし、クルマで移動する中産階級は憧れの的で、車によって引き起こされた交通革命は、巨額のインフラ投資を呼び、経済成長率を高めて、GNP大国をつくり上げました。そのデトロイトが一転して衰退し、2013年、ついに史上最大規模の都市政府の破産に陥ったのです。
衰退の第一波は、第二次大戦後の居住空間の郊外化から始まりました。19世紀までの「オフィスは都心に」という伝統的な都市モデルが崩れて、野原に近代的なビルや工場群、高級住宅街が生まれ、単純流れ作業型のフォーデイズムに画一化されてゆきました。20世紀後半には、高い税金を逃れるより遠い郊外化と工場の海外移転によって、デトロイトは生き血を吸い取られ生命力を失ったのです。中心部はほとんど黒人の貧困層の街と化してしまいました。市域の三分の一が空き住宅、空きビル、空き工場、空地で放置され、草はぼうぼうガラスは破れ、街路灯の4割が壊れたままで、治安は悪化して犯罪が多発する一方です。リーマンショックがこの傾向をさらに加速しました。
しかしアメリカには、西部開拓以来の「場の移動」というパイオニア精神がありました。20世紀末ころに民間から都心回帰の動きが始まったのです。安い空きビルにアーチストが住み着き、空き工場に小規模ベンチャーが活動を開始すると、サービス業も戻ってきました。それに市から無償で貸与された広大な空き地では都市農業、さらに都市林業まで生まれようとしています。ある企業家は、クライスラーの工場に近い地区で、不動産税不払いで差し押さえられた宅地を中心に、1500区画を集約、市から払い下げを受けて、当初は大規模農業を企画しました。しかしビッグな計画に近隣の住民やコミュニテー農業系の市民が警戒しました。「ビッグスリー」にさんざん騙されてきたからです。議会も承認を渋りました。そこで思い切って森林経営に切り替えたのです。2014年5月、カエデ、樫、白樺の苗木を1万5千本植えるイベントが行われ、1200人の市民が参加しました。またヤギの牧場を始めた元ヘッジファンドマネジャーもいました。これは新しい可能性の兆しでした。
一方市当局もポストモーターシテイ案として、プロスポーツチームの誘致や、カジノのてこ入れも検討しました。しかし、これはどちらも経済活性化に貢献しないどころか、むしろ衰退産業であることがわかったのです。アメリカではカジノの廃業が相次いでいます。ラスベガスでも脱ギャンブルを目指し、国際会議都市やテーマパーク都市に転換しようとしていました。ギャンブル依存症は、客だけでなく都市政府までも毒してしまうからです。これは日本の当局にも、よく知ってもらわなければなりません。
アメリカはもともと「小さな政府」志向が強く、衰退都市再生への取り組みも、草の根レベルの非営利組織「CDC」(コミュニテー開発会社)が、クリーヴランドなどで成果を挙げています。市や民間財団、機関(大学、病院、美術館など)が協働する形です。
しかしデトロイトでは、そうした活動がまだ弱い。貧富の格差、大企業への不信などが根強く残って、健全なCDCが育っていないのです。前途はまだまだ厳しいことでしょう。
トリノはアルプスの麓にあります。16世紀以来の古都で、イタリアが1861年に統一したときに最初の首都になりました。しかしそれも束の間で、首都はフィレンツエからローマに移転してしまいました。政治的に失墜したのです。20世紀に入ると、トリノは自動車産業の波に乗り、フィアットのワン・カンパニータウンになりました。「トリノに良いことはフィアットに良く、フィアットに良いことはトリノに良い」といわれたほど、政治、経済、社会、文化領域まで、ことごとくがフィアットの影響下にあったのです。こうして「イタリアのデトロイト」になったトリノは、多数の貧困な南部移民労働者を受け入れ、生産優先の街づくりは環境をも汚染し、都市イメージをすっかり悪化させてしまいました。
ところが20世紀後半に入ると、石油ショックや、グローバル競争に直面し、フィアットは茨の道を迷走することになりました。ここで運命共同体だったトリノも経済的に失墜し、縮退が始まったのです。失業者が街に溢れ、スラムが増えてゆきました。トリノの人口は1975年に120万人をピークに減り続け、1980年代の初めには、フォーデイズム都市の終焉を告げるように、フィアットの象徴であったリンゴット工場までが閉鎖されました。新会社のフィアット・クライスラーが、本社をオランダに移してしまったことによって、トリノはフォーデイズムの残骸が散らばる赤錆都市になってしまったのです。フィアットに従属しきっていた市政はこの間、全くの無能でただ右往左往するばかりでした。
しかしイタリアでは、政治危機に直面すると、それまで舞台の外にいた学者出身の政治家が突然登場することがよくあります。ここではトリノ工科大学のカステラーニ教授が、「市政改革」を訴えて市長選挙で勝利しました。彼は自然科学系の学者でしたが、ポスト工業化時代を嗅ぎとる鋭敏な時代感性を持っていました。その都市戦略プランは、「連携」、「対等」、「シェア」、「協働」の精神を盛り込み、基本哲学をボランテアリズムに置いて教授陣が招聘され、執行部になりました。市民の声を取り上げ、1000人以上のパブリックコメントを得てまとまった最終案では、歴史、伝統、文化、自然と地理的条件に注目しました。物理的、建築面からの都市空間の再構築、車優先の街から人間のためのスペースづくりなど、現場からの発想による小さな改善が積み重ねられました。大企業依存の産業構造から脱却して、ハイテク系のベンチャーや工芸産業を育成し、産学連携を推進しました。「生活の質」、「場の質」が向上し、メガイベントの開催にも力を入れて、トリノの「都市イメージ」はすっかり変わりました。トリノ工科大学の貢献は極めて大きかったのです。「了」

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