「脱・成長神話」武田晴人著 2016年9月1日吉澤有介

—歴史から見た日本経済のゆくえ—
本書では、資本主義経済が成立してからの300年の歴史をふりかえって、「高成長」は一つの歴史的で、ごく一時的な現象に過ぎないこと、「高成長」が長期間にわたって持続する根拠も事例もないことを詳しく述べています。「経済成長」という言葉は、20世紀前半までは経済学にもありませんでした。使われるようになったのは、1950年代後半のことです。それがいつのまにか経済問題においてもっとも重要な概念になっていったのです。なぜかといえば、当時まだ貧しかった戦後の日本が国際競争力をつけるために、技術革新による生産性向上を目指し、同時にそれを上回る雇用の増加での「完全雇用」を実現するためでした。つまり経済成長は目標ではなく、人々に幸福をもたらす手段だったのです。そこにはそれなりの成果がありましたが、石油危機をきっかけとするエネルギー多消費産業の低迷などで、素材産業の設備投資が激減し、資源の制約もあって産業構造は大きく変化して高成長の時代は終わりました。
経済成長率が低下すると、政府は景気対策として大規模な財政支出を繰り返しました。しかし成熟期に入った経済情勢では、民間設備投資は伸びず、家計の消費も冷えたまま、一向に効果は現れません。結果として公的債務の残高は1000兆円にまで達しました。そのほとんどが国内の金融機関や政府機関などで保有されてはいますが、超低金利政策にもかかわらず、企業の投資が貯蓄にまわるばかりという、異常な事態が続いているのです。
債務の償還に、増税や公的サービスの削減などの政策は現実的ではありません。そこで政府はさかんに経済成長追求を打ち出しました。しかし仮に5%の成長によって税収が10%伸びて7兆円増収したとしても、国債の金利が1%上がるので、利払い費用が10兆円も増加してしまいます。これでは元も子もありません。成長は全く役に立たないのです。
それに私たちはすでに低金利を強制されて、毎年ざっと17兆円も財政に寄与しています。財政再建には、よほど大胆な政策が必要でしょう。著者はいくつかの素案を挙げています。
また高齢化で、生産人口比率が減少するという議論があります。確かに2050年には65歳以上の人口比率が4割近くになり、全人口は9500万人になると予測されています。しかし生産年齢人口比率は、一時のベビーブームの影響を別にすれば、長期的には殆ど変わっていないのです。とくに有業者人口でみると明らかで、その比率は100年間も一人の働き手がもう一人を支えていました。ただそのもう一人の中身が変わってきたのです。高度成長期には、子育てと教育に家族が多くの負担をした「子供たちを育てる社会」でした。それが「高齢者を支える社会」に転換してきたのです。問題は、それを家族や家計では支えきれないことにありました。医療や介護のサービスなど、これまでに経験したことのない事態で、家族に代わるものが必要なのです。働き手が減るということではありません。
それでは若年者の雇用と、非正規就業による低賃金はどうでしょうか。高齢化社会に向かう中で、働き手がいないわけではない。ただその働く意欲を削ぐような傾向が強いのです。いま若者たちが、なかなか仕事に定着しないとして問題視する議論があります。
果たしてそれは適切な理解でしょうか。高度成長期の子供たちは、高い教育を受ければ親の世代よりも上の社会階層にのぼることが期待できました。大企業の正社員として、将来の豊かな家庭ををつくることができたのです。就職とは就社することであり、会社を通じて社会に貢献するという通念がありました。そうした時代の常識からみると、フリーターとかニートの若者は、異質な人類と見られがちです。しかし近年の企業は若者たちに、かっての生活を保障するほどの「望ましい将来」を提供しているでしょうか。
企業は、長期の不況を理由に終身雇用を見直し、「解雇の自由」を求めています。雇用の流動化と称して非正規の労働者を増やしました。ここには労働者への配慮はありません。
また若者にしても、早くから一生の進路を決める不安はあるでしょう。多様化した現代社会では、さまざまな機会を覗いてみたいのはごく自然なことです。企業側はそれを雇用調整に利用しました。株主本位の利益優先経営に好都合だったからです。
もともと日本的経営では、労働組合は正規従業員の組織で、雇用を保証し、労働条件の改善につとめてきましたが、非正規には冷淡でした。そこに大きな格差が生じたのです。
それは国際的比較にも表れています。日本の2011年の非正規の賃金は、正規の56,8%で、イギリスの71,2%、フランス89,1%、ドイツ79,3%よりかなり低い。一方アメリカは30,7%と、格差が明確です。これは望ましい方向とはいえないでしょう。
日本では、政府も同じです。破綻した財政のために社会的に必須な公共サービスを、NPOなどの民間に委託して経費を削減しています。公的機関の効率向上の面はありますが、その委託先の賃金は適正でしょうか。最大のブラック企業であるのかも知れません。
企業の株主利益優先の姿勢は、解雇の自由を手にした長期にわたる賃金抑制でした。それが国内の消費を萎縮させ、企業経営の基盤である消費者を「卵を産まない鶏として殺す」ことになりました。正当な賃金を払っても、その商品が評価されて適正な価格が消費者に受け入れられる、それが本来の企業経営者の務めなのです。
ただそれで輸出が阻害されないか、国際競争力が保てるかという議論になります。グローバル化では国境がありません。低賃金の国に生産拠点を移す企業があります。これは国際間に格差があることを前提にしています。海外の消費者のために日本の雇用者を犠牲にすることになってしまうのです。先進工業国の進む道は、高品質、高付加価値の製品を、生産性を上げることで高賃金をカバーすることなのです。それが経営者の責任でしょう。
高齢化に伴う人的サービスについても、本質的に労働生産性に限りがあるので、良質のサービスには良質の人材が多く必要になります。つまり「高賃金、高負担」の社会に変わるということです。社会全体で、もう一人を支えるという国民的合意が必要になるのです。
経済成長は、すでに過去のものになりました。私たちは過剰消費を抑制すべき時代に入っています。成長という物差しは、ここ50年だけのものでした。人の成長も20年ほどで止まります。そこから人間的な成長が始まるのです。どのような生活、働き方を望むのか、経済システムの安定と、持続可能な経済社会の構築が基本的な目標となることでしょう。
日本のここ20年の「ゼロ成長」は、次の社会への先駆けとなる歴史的挑戦なのです。「了」

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