「橘三千代のこと」田中広明著2016年6月10日 吉澤有介

—  豪族のくらし  —
わが国の古代には、卑弥呼をはじめ推古、皇極(斉明)、持統の各女帝に額田女王など、特別に輝く女性がいました。白鳳・天平のころは女性の時代といえそうです。その一人に、以前から気になっていたことですがですが、ひときわ華やかな経歴の割りに、なぜそのような生き方ができたのかよくわからない、不思議な女人がいました。橘三千代です。それがこの著書によって、はじめて納得することができました。概要をご紹介しましょう。
橘三千代の父は、県犬養東人(あがたのいぬかいあずまびと)という下級官僚でした。同族の県犬養大伴が、壬申の乱で吉野から東国に向かう大海人皇子に馬を調達したという「壬申の功臣」であったことから、天武、持統天皇に仕えることになったといいます。しかしそれだけの理由ではないでしょう。奈良時代には、地方の豪族が服属の証として大王に娘を献上していました。これが「采女」と呼ばれた女官のはじまりです。采女は、江戸時代の大奥とは違い、宮内省の女官として勤務していました。定員も決まっていて、采女の司が6人、膳の司が60人、女襦が152人とされていました。いずれも飛びぬけた美女だったので、皇族や上級貴族の子供を生み、玉の輿に乗った采女もいました。
采女だった三千代は、その美貌と聡明さで敏達天皇の孫の美努王に嫁ぎ、葛城王(のち橘諸兄)など二男一女を産んでいます。文武天皇の乳母となり、子の葛城王を文武の乳兄弟として育てました。そして文武が即位のあと、夫の美努王が筑紫大宰率に左遷されると、三千代は離婚して宮廷に残りました。藤原不比等に嫁いだのです。このあたりがどうも不自然ですね。不比等はその後、賀茂氏との娘宮子を文武の後宮に入れます。そこで首皇子(のちの聖武天皇)を産みましたが、宮子はすぐに幽閉されます。梅原猛は、宮子が海人だったとして、それを不比等が養女にしたといいますが、確かに賀茂氏の出なら采女でよかったはずです。ここからは私見ですが、その後の宮子の処遇をみると、よほど身分が低かったのでしょう。まず不比等の実子ではありません。宮子を文武に差し出して不比等の運が一気に開けました。これは三千代と不比等の実に巧妙な戦略だったのです。
三千代は、不比等との間に安宿媛を産みました。三千代36才(不比等42才)という高齢出産です。この安宿媛が成長すると聖武天皇に嫁ぎ、光明皇后となりました。民間からの異例の皇后です。孝謙天皇を産んで藤原氏は、はじめて天皇の外戚としての地位を固めたのです。橘姓となったのは、文武のあとの元明天皇の大嘗祭の祝宴で、三千代が杯に橘を浮かべて酒を飲んだことから、その風雅と美しさを愛でて「橘宿禰」を贈られたことによります。よほどの美貌と才気があってのことでしょう。本書では、不比等と三千代の出世は、稀に見る秀才と才媛の共演であったとしていますが、やはり主役は三千代であったと思われます。不比等の没後もしっかりと役割を果たしました。息子の葛城王は、橘諸兄として長屋王の滅亡、藤原四兄弟の急死の後を受けて急遽政権を担いました。正一位左大臣となっています。法隆寺には「橘夫人厨子」があります。享年は68歳でした。「了」

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