「ありえないことが現実になるとき」ジャン・P・デュピュイ著2015年6月18日 吉澤有介

**賢明な破局論にむけて**
本書は、人類の生存さえ脅かしかねない巨大な破局についての考察です。
近代産業社会が生み出した「新しいリスク」
—地球温暖化、環境破壊、狂牛病、産業化された加工食品のリスク、医療事故など—
をどのように思考するか、それらにどのように対処するかを出発点にしています。人類が自らを破壊する存在になったのは20世紀になってのことでした。
それらのリスクについて多くの社会学者が論じてきましたが、その根底には、近代資本主義において予測・制御可能としていました。リスクは、計算可能で防止できるという楽観主義です。経済的合理主義の発想から「予防原則」という処方箋が打ち出されました。
しかし現代におけるテロ、戦争、自然破壊といったリスクは地球規模に達し、それをコントロールできるとする言葉や約束とは全く相容れない、計算不可能な「新しいリスク」になっています。そのことを象徴するある対話がありました。「(遺伝子組み換え作物に関して)なぜ危険性が高いとお考えですか‐‐危険性が極めて高いかどうかなどわかりません。だからこそ問題なのです」。科学と技術の発展を基礎にした産業社会は、今日、自分たちの未来に極めて重大な脅威が重くのしかかっていることに気がついてきたのです。それは人間による制御を免れて独り歩きを始め、しかも不可逆で前へ前へと進むばかりのものになっていました。技術は絶えずさらに自律化することで、あたかも
‐‐‐最終的に人間を自由と自律の重責から解放する運命—
となる計画を進めているかのようなのです。
原発事故の可能性は、ニュートン的技術とは異なり、計算可能なリスクではありません。原発の安全をリスク管理の問題と思い込んでいたことが、東電の根本的な間違いでした。
著者はこうしたリスクには、管理や対処という視点からではなく、認識を根本的に改めて「破局」として直視することを提唱しています。破局論は、破局が必ず起こるという、徹底した悲観論のなかに希望を見出す哲学的な思考なのです。破局は一度起きてしまえば、まるでそれがありきたりのものにしてしまいます。人間は、起こりえないと考えていた破局が現実に起こってしまった後になって、回顧としてそれが起こるべくして起こった必然だと理解しようとするのです。
本書では、破局がもたらすこの奇妙な転倒のメカニズムを解明しています。アリストテレスやカントらは、歴史の時間に関する驚くべき虚構を作り上げました。「何を行うにしても、われわれの未来は決定されているという事実を知らないフリをする必要があり、自分たちがまるで自由であるかのように、なすべきことを決定しなければならない」と。なお「戦争論」を著したクラウゼヴイッツも、「可能な出来事はその結果の存在によって、現実だと判断するべきなのである」といいました。予想される未来は、一方で運命の結果であり、もう一方で未来を予想し、その予想が一般に知られることで、私たち自身が未来の原因となって働きかけているのです。本書は、人類の終末を想像することによって、破局の実現を妨げる行動をとり、望ましくない未来を避けるための「賢明な破局論」でした。「了」

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