「医学探偵の歴史事件簿」小長谷正明著 2014年8月5日 吉澤有介

  歴史の流れの底には、常にその時代の医学・医療の状況があります。歴史上の人物の病気は、歴史を変える大きな要因になりました。著者は、精神内科の専門医ですが、ごく身内にその事例があったことから実感があって、現代から古代に遡っての歴史上の大事件を、医学的に詳しく考察し、興味深い26編の事件簿として紹介しています。

 著者の父は昭和208月、海軍航空部隊参謀として終戦処理に入ろうとしたとき、厚木基地のK大佐が、米内海相の命令に背いて徹底抗戦を主張して、数千人の部下とともに反乱行動に出ました。海相の厳命を受けた父たちが厚木に赴いて、K大佐に必死の説得を行ったが拒絶され、もはや武力鎮圧にもなりかねない情勢になったとき、K大佐が突然高熱のマラリアを発症して狂乱したため、即座に取り押さえて監禁し、反乱を未然に防ぐことが出来たそうです。K大佐の南方でのマラリアの既往症のためでした。その10日後、米軍の第1陣が厚木に到着し、著者の父が進駐軍を迎えた最初の日本軍将校となりました。

 また著者の叔父は内務省出身で宮内庁次長でしたが、昭和天皇のご病状が進んだとき、突然侍従長に任命され、昭和641月崩御されるまでお側に従いました。陛下の病名は、後に十二指腸乳頭周囲ガンと公表されましたが、周囲はたいへんな苦労をしたようです。しかし叔父の口は堅く、医学的な経過は一切話しませんでした。

 孝明天皇は天然痘で崩御されました。岩倉具視の毒殺説も出ましたが、この時代は種痘が、ようやく世界的に普及しはじめたときで、明治天皇だけ幼少期に種痘していました。もしこれが逆であったら日本の近代史は大きく変わったことでしょう。なお明治天皇は脚気に悩みました。将軍家茂も脚気で死んでいます。当時の国民病で、後に陸軍の鴎外らの細菌説と、海軍の栄養説が対立しましたが、明治天皇は海軍を召して平癒されたそうです。

 ヒトラーは、1942年に52歳で手が震え、歩行も異常になりました。ワルキューレ暗殺未遂事件は際どく逃れたものの、典型的な重症のパーキンソン病で、ピストルも握られないほどでした。ますます非理性的な行動に走り、最後は地下室で自殺しました。なおその病名のもととなったパーキンソン博士は英国人で、医学界に大きな貢献をしましたが、古生物学の研究者でもあって、恐竜の「〇〇サウルス」は彼の命名法によるのだそうです。

 スターリンは、異常に猜疑心が強く、特に医師への不信感がありました。医学界の重鎮だった医師が、「高血圧のため特別食と絶対安静が必要」と診断したら、スターリンは自分を排斥する陰謀だと激高し、医師を投獄してしまいました。「パラノイアの疑い」と診断した精神科の医師は、その直後に謎の死を遂げています。1953年にご本人が卒中で倒れたとき、主治医は皆獄中で、はじめての医師たちが何も出来ないまま死亡してしまいました。

 ケネデイの腰痛は、かなり激しかったようです。かって日本の駆逐艦「天霧」との衝突で沈没、漂流した際の名誉の負傷とされていましたが、事実は24歳で海軍に志願した以前のテニスでの腰痛があったのだそうです。生還して勲章を受けましたが、腰痛はひどくなっており、44年には切開手術し、翌年3月に海軍を辞めたときは、戦傷による名誉の除隊ではなく、慢性腸炎による病気除隊だったようです。この頃が彼の最悪の人生でしたが、やがて大富豪の父の援助で政治的キャリアをスタートしました。下院議員から上院議員に進みましたが、腰椎最下部の腰痛はさらに激しくなり、数回の手術を受けた上に、副腎皮質ホルモンが投与されていました。甲状腺も機能低下していたので性欲も減退していたはずですが、マリリン・モンロウとの華やかな出入りは何だったのでしょう。

 いつも幅広のラップとコルセットで固定していたので、運命の日に第1弾が首筋に命中したときも姿勢が崩れなかったため、第2弾が正確に後頭部を破砕したという説もあるそうです。顔は無傷で、にこやかで端正な表情のままでした。決して健康な体ではなかったのに、彼の言葉や意志は輝いて、後世に残る一つの時代をつくったのです。

 レーガンは、B級映画の大根役者でしたが、映画俳優組合の会長を8年務めた政治力がありました。時流に乗ってカリフォルニア知事となり、1980年に史上最年長で合衆国大統領に当選しました。しかしその3ヶ月後に精神異常者から狙撃され、心臓間近に達した銃弾を摘出しています。このとき核ミサイルの発射ボタンの管理が大問題になりました。彼はその後も大腸がん、前立腺肥大、鼻の皮膚がんの摘出をしました。それでもぶれない姿勢で、大型減税で経済を再建し、891月ソ連に打ち勝って冷戦を終結させました。半年後、8年の任期を終えて、夫人とメキシコにバカンスで訪れた際に落馬し、頭部を強打しました。硬膜下血腫の除去手術を受けましたが、94年自らアルツハイマー病であると告白して話題になりました。もともと大統領任期中にその兆しがあって、しばしば物忘れしていました。しかしその告白後も、重要なパーテーでは立派なスピーチをしたそうです。ただ終わるとまたぼうっとしていました。2004年、肺炎で亡くなっています。93歳でした。

 キューリー夫人は、夫ピエールを馬車の事故で亡くした後、ソルボンヌの教授をしていましたが、第1次大戦の際、レントゲンによって発見されたばかりのX線の撮影装置を自作し、娘のイレーヌ(のちノーベル化学賞)とともに、救急車を運転して前線を巡り、多くの負傷兵を救いました。このときX線がはじめて実用化されたのです。

 英国王ジョージ五世も、この第一次大戦の際にフランスの前線を視察して落馬し、骨盤と肋骨を骨折しました。その後は一応回復してまじめな立憲君主として名を上げましたが、1928年に63歳で慢性気管支炎と胸膜炎になり、呼吸困難で苦しみました。見かねた侍医が麻酔を注射したのですが、これが後に安楽死か殺人かという大論争を引き起こしました。

 落馬の例では、源頼朝がいます。相模川にかけた橋の法要に出たときで、17日後に死亡しました。脳梗塞か、脳出血と見られますが、その間に義経や平家の亡霊に悩まされたという話が残っているそうです。精神的負い目を感じていたのかもしれません。
 本書では、さらに古事記にある倭建命の最後が、本人が実在したかどうかは別に、症状の記述にリアリテーがあること、ジャンヌダルクのテンカン症状、ハプスブルグ家の近親婚の実態、ツタンカーメンの健康状態など、多くの歴史事件に触れています。最近のDNA鑑定による新事実もありました。歴史上の人物の病気は今も研究対象になっています。病歴や症状、手術所見、解剖記録が多いからです。これはぜひ続編を期待しましょう。「了」

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