「梅棹忠夫」―知の探検家の思想と生涯―山本紀夫著 2012年12月30日 吉澤有介

 梅棹忠夫は京都西陣の商家に生まれ育ちました。学校も小学校から京都一中、三高、京大(いずれも旧制)と、すべて京都で過ごしています。京都を取り巻く豊かな自然が、彼の探検家、研究者としての人生に、決定的な影響を与えたのです。
本書では、小学校での昆虫少年が中学時代に京都北山の森林に分け入り、山歩きから次第に登山家として、さらに探検家として自然や民族の生態を追求した知の巨人の思想と生涯をさぐっています。彼は、一般には「文明の生態史観」や「知的生産の技術」で知られていますが、亡くなる前年の89歳のときに書いた「山をたのしむ」に、山は自分のルーツであり、すべての出発点であると述べて、終生登山家であったことを表明しています。それほどに山から得たものがおおきかったのです。その山もただ歩いたのではありません。中学時代からすでに行く先の山について、名称の起源や歴史、地理、主要コースなどをあらゆる角度から調べて、実地踏査に生かして詳細な記録をとりました。その集大成の「山城三十山記」に、
15歳の彼は、「じつに山は一大総合科学研究所であります」と記していたのです。三高の山岳部では、その山行は日本アルプスに向かい、猛烈な勢いで踏破してゆきます。そのため2年生を3回もやることになりました。三高山岳部の伝統は「なによりもまず開拓者たれ」でした。そのとおり彼は仲間とともに、北朝鮮の白頭山に遠征し、地図のない地理的空白地帯を行きました。こうして登山家から探検家への道に入ったのです。さらに京大の樺太(現在のサハリン)遠征隊に、ただ一人の高校生として参加しました。しかも当時から自分流の「発見の手帳」を取り続け、あくなき好奇心、知識欲による思考力を鍛えていたそうです。京大理学部動物学教室に進学して、今西錦司らのフィールド・ワーカーのグループに入って、梅棹の方向は決定的になりました。「ポナペ島」遠征から、「大興安嶺探検」での活躍、とくに後者では今西の本隊と分かれて、川喜田二郎の率いる「川喜田支隊」に参加して大興安嶺の中央を突破した記録は、学術的にも大きな成果を挙げています。さらに戦時中は、今西とともにモンゴルの研究所に赴任、新婚の夫人と遊牧民の暮らしをともにしました。ここで動物学、植物学などの生態学から民族学へと、研究の領域を拡大していったのです。戦後はじめての京大カラコルム・ヒンズークシ探検隊の記録「モゴール族探検記」と、壮大な「文明の生態史観」で、梅棹の仕事は一気に開花しました。その平易な文章は、今西による徹底的な指導と絶え間ない研鑽によるものだったそうです。
やがて自らも京都の自宅で毎週「梅棹サロン」を開いて、山岳部や探検部のOB・現役たちと熱く語りあいました。1965年には、それまでの大阪市立大学から京大人文研に移って、社会人類学部門を担当し、大阪万博の機会をとらえて、梅棹が畢生の仕事とした国立民族博物館(みんぱく)の設立へと邁進してゆきます。(みんぱく)では文系、理系の研究者たちを激しく鼓舞しました。とくに重視したのは共同研究で、研究リーダーに自分が山で厳しく体得したリーダーシップを強く求めています。突然の失明という悲運に遭いながらも、知的探検はやまず、全23巻の著作集を完成させました。終生探検家だったのです。「了」

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