「神武天皇vs.卑弥呼」関裕二著 2018年10月29日 吉澤有介

-ヤマト建国を推理する- 新潮新書、2018年4月刊

著者は古代史研究家で、多くの著書があります。本書は、これまでの20数年間の執筆生活の総決算として、かなり大胆な仮説を提示しています。かいつまんでご紹介しましょう。

近年、考古学が大きく進展し、多くの物証が得られてきたのに、日本古代史論議はいまだに迷走を続けています。その理由としては、神話を無視し、記紀などの古い記事を軽視してきたことがありました。確かに「日本書紀」編者には歴史改竄の動機がありました。当時実験を握っていた藤原氏は、ヤマト建国に貢献してきた豪族たちを蹴落とし、粛清してきました。自家の正当性を謳うために、古代名門豪族たちの歴史が邪魔になったのです。「日本書紀」は何かを隠そうと必死でした。しかしそのウソの中にヒントが隠れていたのです。

ここにきて考古学はヤマト建国の経過をほぼ明らかにしています。魏志倭人伝にある邪馬台国を、かって北部九州説が優勢だったころは、朝鮮半島からの渡来人が北部九州で富を貯え、強大な軍事力で東を制圧したとみていました。しかし纏向遺跡の発掘で、大きく様子が変わりました。このヤマト建国の地に、九州の影響がほとんどないこと、邪馬台国にあった城柵などもない。それに纏向の出現は、邪馬台国よりもすこし後です。3世紀初頭に忽然と人々が纏向に集まって都市をつくり、東西の広域流通ネットワークを構築しました。前方後円墳という埋葬文化も各地に広まり、ヤマトの王を中心とした、ゆるやかなつながりを持ったヤマト政権ができたのです。邪馬台国よりこちらの政権を重視すべきではないか。

瀬戸内から出雲の銅鐸文化圏と東国には、強い権力を嫌う縄文由来の風土がありました。文物は西から東へ、強い権力が建国したという常識は覆ったのです。視点を変えましょう。

そこで著者は神武天皇に注目します。なぜ纏向でなく、かなり離れた橿原に宮居したのか。しかも神武の周辺には「九州の海人」が多い。南九州から来たのも謎です。ここで大きな仮説が出てきました。ヤマトを治めていた崇神天皇が、西から伝わった疫病を鎮めるために、南九州から霊力を持った神武を呼び寄せた。神武は海人たちに守られて橿原に住んだとみます。「記紀」によると、崇神5年の疫病は人口を半減させました。大物主神のお告げで、その息子の大田田根子を探してようやく鎮まったといいます。彼こそが神武ではないか。母がともにタマヨリ姫で。大伴系の神の子です。崇神と神武は同時代の別人だろう。そして神武は応神天皇とみるのです。母が神功皇后で、天孫降臨神話につながります。武内宿禰に支えられたヤマトの神功皇后は、豊浦宮から奴国の手引きで北九州に入り、伊都国をも恭順させて、内陸にあった邪馬台国を攻め、卑弥呼を殺した。親魏倭王の地位を継ぐために宗女の台与と称して魏を欺き、王位についた。ここで神功皇后(台与)は奴国の海人安曇族と強く結びつく。しかしヤマトはこれを恐れて裏切り、大軍で神功皇后を急襲して、南九州に逃亡させた。奴国王たちは急遽金印や後漢鏡などの宝を隠し、縄文海人のネットワークで神功皇后(台与)に従った。ヤマトが疫病に襲われたとき、海人に守られた王の末裔を探し出して招き、その霊力に頼った。神武(応神)は祭祀王としてヤマトに入った。その男系の祖は武内宿禰かも—こんな具合に仮説が展開してゆきます。いろいろと考えたものですね。「了」

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