「宗像大社・古代祭祀の原風景」正木 晃著 2018年8月30日 吉澤有介 

NHKブックス2008年8月刊
著者は、宗教学の専門家で、日本密教やチベット密教などの多数の著書があります。荒海で名高い玄界灘の真ん中にある沖ノ島は、海の正倉院とも呼ばれる古代祭祀の遺跡で、絶海の孤島に縄文前期(6000~5000年前)からの5000年あまりにわたる祭祀の遺物が遺され、その8万点が国宝に指定されています。遺跡は岩上・岩陰。半岩陰・半露天・露天の各段階ごとに歴然と遺されていました。しかもその祭祀を司る宗像氏は、宗像大社によって現代まで絶えることなく祭りを伝えています。これは世界にも全く例がありません。
沖ノ島は、九州本土・壱岐・対馬、そして山口県西端地域からもほぼ等距離にあり、朝鮮半島から対馬の北端を経て日本列島に渡るか、あるいはその逆コースをとるにあたって、絶好の位置にあります。東西約1㎞、南北約0,5 kmの小島ですが、石英斑岩が白く目立って、古代人にはまさに神の島に見えたことでしょう。沖ノ島には、1954年から1971年にかけて、三次にわたる本格的な学術調査が行われました。(2017年関連遺跡と世界遺産登録)
遺跡は、唯一の上陸可能地点である島の南端から岩山の中腹にかけて、ほぼ集中して23か所が確認されています。まず縄文時代ですが、前期では使用されていた土器から、北九州沿岸の遠賀川流域から渡来してきたものとみられます。それが中期になると、次第に瀬戸内文化の影響が濃くなり、晩期にはまた北九州からの渡来になっていました。その主な目的は、島で繁殖していたニホンアシカ猟だったようです。大量の骨と、解体に使用した黒曜石の石器が出土しています。黒曜石は大分県国東半島のものでした。縄文人はこのニホンアシカの骨をまとめて埋葬していました。再生を願う魂(タマ)祭りの跡でしょう。しかし弥生時代になると、渡来する人々がなぜか少なくなります。ニホンアシカ猟も消えてゆきました。
渡来数は弥生後期からまた増加に転じ、4世紀の後半から祭祀の時代に入ります。10世紀初頭にかけて600年にわたる祭祀がいとなまれました。最古の祭祀遺跡は、船の舳先のように九州の宗像大社の方向に突き出ている岩の上でした。祭壇があり、滑石製子持勾玉が捧げられていました。これは古代祭祀では最も霊性の高い呪具で、畿内の最古の古墳でも出土していますが、沖ノ島のほうが一形式早い時期のものでした。岩の上で大和政権に先行して航海安全を祈った、ごく少人数による神懸かりした祀りが行われていたとみられます。
次の岩陰遺跡では形が変わり、神は岩を依代として降臨し、人と交流したようです。沖ノ島の祭祀の最盛期でした。規模は大きく、その奉献品は豪華絢爛を極めています。祭祀はさらに半岩陰へと移行しますが、最終段階の露天では、平坦な地面で祭祀が行われました。その祀りは伊勢神宮に似て、大量の奉献品はすべて国産でした。この海域には海人族の宗像氏がいて沖の島の神を祀り、本拠の北九州に広大な後背地をも支配し、優れた航海術で大陸と交易する大豪族に発展していました。初期大和政権にとって、この海上の道を掌握していた宗像氏との提携はまさに生命線でした。宗像氏の神を自ら祀り、戦略的に国家祭祀に取り込んだのです。朝廷は遣唐使の海上安全や新羅海賊の退散を祈り、宗像大社に正一位を贈る異例の厚遇をしました。大海人皇子との深い縁も語られています。宗像氏は賢明でした。了

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