「天災から日本史を読みなおす」磯田道史著 2015年6月8日 吉澤有介

著者は歴史学者で、NHKテレビ「英雄たちの選択」の司会者としておなじみです。天災が起きると、人間の歴史の見方、世界観が確実に変わるとして、自身で調査した古文書や、現地の古老の話などを丹念に集め、そのときどきの人間を主人公にして、独自の災害史を構築しました。本書は、日本史を天災との遭遇という立場から見直しています。
天正地震(1585年)は、近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震でした。この地震が起きなければ、徳川家康は2ヶ月後に、豊臣秀吉の大軍の総攻撃を受けるはずだったのです。兵力では秀吉が圧倒的に優勢でした。ところがその秀吉軍の前線基地の近江、伊勢、美濃、尾張は震度5~6で殆ど壊滅して、戦争どころではなくなってしまいました。一方、家康軍には殆ど被害がなく、秀吉は家康に妹を贈って、ようやく事を収めたのです。
さらに1596年に起きた伏見地震は、秀吉の居城を直撃しました。秀吉は9月5日の深夜、裸のまま幼児秀頼を抱いて庭に飛び出し、辛うじて助かりました。伏見城は全壊して、死者は数百人に及んだといいます。しかしこのとき、諸大名の秀吉見舞いの対応は大きく分かれました。無理な朝鮮出兵で疲れ、不満がつのっていたのです。地震後の秀吉はすでに異常で、人心は次第に徳川へと移ってゆきました。その生々しい記録が残されています。
宝永地震が招いた津波と富士山噴火についても、古文書や伝承によって、その実像に迫ることができます。三保の松原を襲った津波の高さは、古文書の詳しい記録で、専門家の判定は3.9mとされていました。しかしある伝承では、対岸の旧清水市の中心部あたりに「いるか松」があったといいます。津波で、イルカの死骸が引っかかっていたというのです。著者がその場所を確かめて計算したところ、津波の高さは5.6mに達していました。
富士山の噴火の記録もたくさん残されています。当時の人々の観察眼は素晴らしいものでした。著者は各地の古文書から、次々と新しい資料を発見しています。江戸の大名屋敷では、地震の震度を天水桶の水のこぼれ方で記録していました。そのレベルで登城すべきか判断していたからです。そのために1707年10月4日の本震から11月23日の富士山噴火までの揺れの記録が詳細に残りました。この貴重な情報はきっと役立つことでしょう。
また宝永津波は全国を襲いました。寺田寅彦は高知の生まれでした。もっとも悲惨な被害を受けた故郷の種崎の記録に接して、天災への科学的研究に進んだのでしょう。そこには当時9歳だった一人の武士の、あまりにも悲しい難行録が残されていたのです。
個人の記録は大きな歴史研究のもとになります。著者自身も、母が2歳のときに徳島で1946年の昭和南海地震に遭遇して、直後の大津波を家族10人暗夜の山に逃げて奇跡的に助かりました。地元では多くの人が亡くなり、とくに幼児が目立ったそうです。当時12歳だった伯母に鮮明な記憶があって、その話から多くの教訓を引き出すことができました。
京都にも近世に慶長、寛文、文政と大地震がありました。御所が倒壊してお庭に避難された光格天皇は、神器よりも人命を守れと女官たちに仰せられたそうです。各地の溜池の崩壊も大惨事でした。歴史に残る人々の記憶を、現代に生かさなければなりません。「了」

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