体を使って心をおさめる「修験道入門」田中利典著 2014年11月26日吉澤有介

   著者は、金峰山修験本宗の本山、吉野、金峰山寺の宗務総長です。5歳のときに山伏だった父に連れられて、大峰山の山上ケ岳で修行して以来、山伏として五十数年にわたって修験道を歩み続けてきました。修験道とは、山中に分け入り、山を駆け、山に篭って厳しい修行を行うなど、身体を使って行をして、験力や悟りを得る宗教のことです。そしてその実践者が山伏なのです。その姿は、歌舞伎の勧進帳などでもおなじみでしょう。

 古来、日本人は自然を崇拝し、とくに山に対する深い畏れを抱いてきました。山には霊的な力があると信じてきたのです。山そのものがご神体でした。山だけではなく、岩や樹木も「神の依代」として崇めてきました。身の回りのどこにも神さまがおられて、私たちは見守られていたのです。その神の国に六世紀ころ、仏教が渡来しました。はじめは多少の摩擦がありましたが、もともと八百の神々の国です。仏教は新しい神さまとして受け入れられました。神と仏は一体と考え、仏が神として現れた「権現」として祀ったのが「修験道」となったのです。それはまた優婆塞、すなわち在家の宗教でした。山伏たちは、その霊力で庶民に加持祈祷を行い、人々のさまざまな悩みや願いを受けて親しまれました。

 修験道の開祖は役行者とされています。今から一千三百年前の飛鳥時代に、大和葛城に生まれた実在の人物で、鴨氏の一族だったようです。厳しい修行を重ねて17歳でデビューし、38歳のときに金峰山の山上ケ岳でついに「蔵王権現」を感得しました。その場所に蔵王堂を建立し、全国の山々への修行の旅に出ました。その足跡は多くの説話に残っています。役行者はさまざまな神通力や呪術を使いました。「日本霊異記」に盛んに登場します。超人的な知恵と力にたくさんの弟子が集りました。それはときの国家にとっての脅威となり、讒言もあって、捕らえられて伊豆大島に流されました。2年後無実とわかって許され、大和に戻りましたが、その701年に68歳で遷化しました。それが正史である「続日本紀」に記載されています。役行者の事跡は、後々まで山林修行者たちのあこがれとなりました。吉野の蔵王堂は聖地となり、全山の桜とともにその後の歴史を彩ってきました。

 ところが明治維新によってその情勢は一変しました。政府は国家神道を確立するために、「神仏分離令」を強行しました。いわゆる「廃仏毀釈」です。修験道の霊場はここでたいへんな被害を受けることになったのです。明治5年には「修験道廃止令」が出され、当時17万人もいた山伏そのものまでが禁止されて、この法難はその後も深い傷を残しました。

 しかし消えかけていた修験道が再び脚光を浴びる日がやってきました。2004年に吉野、大峰、熊野、高野山と熊野道が世界文化遺産に指定されたのです。これらの霊場とともに修験道が大きく注目されました。日本の精神文化を世界に向けて発信するときが来たのです。現代社会の心の病を癒す大きなヒントになることでしょう。修験道には、誰でも山伏として参加できます。多くの人に自然を崇める心を育てたいと願うばかりです。「了」

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