「草地と日本人」 須賀丈、岡本透、丑丸敦史共著  2012年11月14日  吉澤有介 

  日本列島草原1万年の旅

 日本は緑豊かな「森の国」だと考えている人が、一般的ではないでしょうか。現状をみると、確かに国土面積の65%が森林で、森林以外の草地は僅か1%あまりですから、どうみても森林の国です。しかし昔はそうではありませんでした。広重の浮世絵には、山の斜面の多くが草原状に描かれています。また幕末に来日した英国の外交官アーネスト・サトーの日記には、信州を旅行して村を出ると1本の木もない一面の草地で、足元に桔梗が咲いていたとあります。明治から昭和初期までも、軽井沢はススキの草原でした。もっとさかのぼって、万葉の時代にも野遊びの歌がたくさんあります。武蔵野もススキの原でした。

 それらの草原は、みな人が手を加え続けてきた半自然草原なのです。著者らは、日本列島の自然と人のかかわりの歴史を、草原利用から見直してゆくことを提唱しています。ここには生物地理学、生態学と考古学、歴史学、それに生物多様性の保全までつなぐ、大きな時空のもとでの総合的な歴史生態学・保全学という視点があります。それは遠くユーラシア大陸の草原までつながっているのです。

 後氷期の日本列島は、基本的に森林が発達しやすい気候条件が続きました。その中で広大な草原が展開してきたのは、野火・放牧・刈り取りして屋根や肥料にするなどの、人々の活動があったからです。これをある生物学者は、人間による自然の持続的かつ賢明な利用であったといいました。私たちの感じる草原の快さも、その営みからきたのでしょう。

 草原の由来は火山の爆発にあったようです。続いて人による火入れも大きく、各地で黒ボクと呼ばれる炭素の微粒子を多く含んだ黒色土が展開しています。その分析で、縄文遺跡との関連が指摘されました。草原の維持は狩猟にも好都合だったのです。

 後氷期の温暖・湿潤のもとで、生息環境を失いかけた動植物は、人間の活動によって生き延びることができました。縄文から1万年にも及ぶ草地づくりがあったからです。さらに古墳時代あたりからは、高句麗由来らしいウマの歴史が始まりました。とくに東国で盛んで、多くの牧がつくられ、草原の放牧が盛んになりました。関東武士はツングース系の高句麗の末裔だったようです。ウマは軍事だけでなく、通信や輸送や農耕にも役立ちました。北上山地や信州の霧が峰、車山などに、現在も広大な草原があります。一方西国にはウシが多く飼育されました。中国山地や阿蘇高原がその放牧地で、今に続いています。
草原は農地の肥料にも必須でした。松本藩の記録によると、水田一反について、1012反の草地が必要だったという記録もあります。このような草地は、オオルリシジミのような草原性のチョウや、桔梗、オミナヘシなどを守ってきましたが、明治以降の森林拡大政策や、農家の草地依存がなくなったことで、現在はこれらの生物がいずれも絶滅危惧種になっています。かって草原であったしるしの黒色土は、全国土面積の17%もあります。生態系が大きく変わってしまったのです。現在の草地は、観光のために野焼きや、田の畦などに僅かに遺すだけになりました。1万年にも及ぶ生態系の育んだ、貴重な生物多様性を保全してゆくためにも、森林と草原のバランスのとれた国土のあり方を問う好著でした。「了」

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