新日本紀行「木曽の暮し」  2012年9月9日 福島巖

  長野県木曽の山に暮らす人々の現在の生活ぶりがNHKで紹介された。今でもこのような生活が続いているのに驚くとともにゆっくり流れる時間をみて都市地に暮らす私たちが何故こんなにせわしい毎日を追っかけているのか不思議に思ってしまった。

l     奥千本の山林
木曽は9割が森林である。木曽のヒノキは有名であるが過去何度か絶滅の危機を通り抜けている。400年前、戦国時代が終わり各地で建築ブームが発生して伐採されたため山に木が無くなるところまで行ってしまった。この地を管理していた尾張藩がその対策として入山を禁止し、「不入山」の地に指定した。明治政府もそれを継続し国の管理下に置いている。350年間立ち入り禁止で育った無数のヒノキの巨木を「奥千本」と呼んでいる。山に栄養分が殆ど無いことからゆっくり育ち木目が密になる。根の張りも悪いため浅く30mの木は30mの根が走って広がりたくさんの木の根が複雑に絡み合ってお互いの木を支えているのだという。

l     伊勢神宮の御神木
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年に一回の遷宮の際にはこの山で御神木が伐採される。古式に則った神事の後、大勢の人の看視の中で選ばれた3人樵の鉞で伐られる。この伐った跡に小さなヒノキの苗が生まれ、また巨大なヒノキに成長していくという。一方ヒノキの競市(せりいち)には全国から買い手がやって来る。目の玉が飛び出るような高額な取引が行われる、神棚や仏具の主要な部分に使う材料は100年もの、300年ものとそれだけの寿命を持っているので価値があるのだという話だった。

l     木曽馬
木曽には中山道が通っていて馬篭宿、奈良井宿など11の宿場町があった。険しい坂道が多く物資の輸送は木曽馬の背でやっていた。馬を大切にして一番暖かい所に馬小屋を作った。男は山、女は畑と馬の世話と仕事を分担し、馬と一体の生活の毎日であった。昭和初期には5000頭もいたが40年代に機械農業に変わってからは激減し、小さくておとなしい木曽馬の絶滅の危機が何度かあった。純粋な木曽馬の保存の重要性から現在30数頭が残って大切に育てられている。出産から子育てと昔ながらの面倒を見ている家族も数軒ある。夏場には放牧に出して山の自然の中で強く育てる。

l     山岳宗教
木曽には御嶽山、木曽駒ケ岳の名山がある。滝に打たれて修行する行者の姿や神社に参拝する行者の姿が絶えない。沿道には不動王の碑がたくさん置かれている。駒ヶ岳神社では山の神の舞、太太カグラ(口伝で若者に教えていく)が伝わっている。神に感謝する祭りのチャンスがたくさんあり酒を酌み交わしながら伝統儀式を次世代に繋いでいく努力が残っていた。

l     木地師の活動
南木曽の漆畑地区には木地師がロクロを使ってお盆やお椀(大きいもの)を作って売っている。古文書によると滋賀県の辺から伐った木材を加工する木地師が全国に広がっていった。2030年でよその場所に移っていった。漆畑の人は130年前にここに定着したのだという。
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木曽路懐かしいですね!
私は1977~81年の4年間岐阜県中津川市の工場に勤務していました。『木曽路はすべて山の中である。あるところはそばづたいにいく崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた』とは島崎藤村の『夜明け前』の書き出しです。
 木曽と言えば、ある人は木曽義仲を浮かべ、ある人は中山道を連想し、そしてある人は深山幽谷でイメージするかも知れません。
 そうなのです。木曽路はそれこそ山の中であり、江戸幕府と尾張藩の政策により、400年の昔から「不入山」の地に指定され、それを犯す者は『ひのき1本首一つ、枝1本腕一本』ともいわれる重罪に処されたのです。
 尚、木曾5木(きそごぼく)と言われる五種が対象になりますがそれは、ひのき、ねずこ、さわら、あすなろ、高野槇で、一般の方にとってその見分けは難しいですね!
 表街道の東海道に比し、中山道は裏街道であり、また男街道と言われる東海道に対し女街道とも姫街道とも言われてきました。それは東海道が天竜川とか大井川とかの暴れ川があり、加えて江戸防衛という幕府の政策により大きな橋を掛けさせなかった為に、当時の旅人は江戸から関西への旅程が確保できず、更に雲助的な川渡し人足の狼藉振りもあって女性達は暴れ川のない中山道を選んだのです。幕末の頃皇女和宮の降嫁時にこの中山道を通って行ったのは有名な話です。
 ところで東海道は53宿ですが中山道は?
69宿なのです。今の春日井の手前から西に折れて行き、草津で主街道の東海道に合流して京都に向かう、というわけです。
 さて、木曽11宿の中でも名が通っているのは何といっても馬籠、妻籠、奈良井の宿でしょうか!
馬籠は島崎藤村で有名であり藤村記念館を訪れる人も多く、妻籠は昔ながらの町並み保存で表通りには電柱が1本も見当たりません。昭和30年代後半から地元の保存会が中心になって頑張ってきた成果ですが、折りから岩戸景気(懐かしい言葉ですね!)の波に乗りまた、アンアン、ノンノ等の女性旅行雑誌が火を点けてくれました。 
 もし妻籠に行かれることがありましたらお寄り頂きたいのは「奧谷郷土館」という脇本陣を改造した記念館です。先程の話通りに、江戸幕府の頃は目の前にありながら指を咥えて見ているしかなかった立派な巨木を明治新体制に成るやいなや切り倒して建築材に贅沢に使い、長押には黒柿、床柱には大分の豊後竹を使ったり建築材としても価値がありまた、町営ですがその説明はまさしく立て板に水状態です。馬籠から妻籠までの鬱蒼とした旧道を歩いてみるのも一興ですよ。
阿部英二郎

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