「間伐材活用シンポジューム」の報告 2012年11月10日 吉澤有介

  この118日、憲政記念館講堂において、第4回間伐材活用シンポジュームが、国土緑化推進機構主催のコンサートつきで開催されたので、その概要を報告します。

 シンポジウムは、基調講演をNPO「森は海の恋人」理事長の畠山重篤さん、パネラーに NPO吉里吉里代表の芳賀正彦さん、岩手県の林業振興課長深澤光さん、コーデネーターが毎日新聞社の斗ケ沢秀俊さんという顔ぶれでした。詳細は毎日新聞に掲載されるそうです。

 畠山さんは、気仙沼の牡蠣漁師で、その著書は福島さんからHPに紹介されています。http://www.kuramae-bioenergy.jp/k_column/?p=29
またもと北大の松永教授の、生物には鉄が必須という話にも登場しました。基調講演ではその後の様子を報告されました。畠山さんが森に木を植えはじめたのは25年前でしたが、その活動が京大でヒラメを研究していた田中教授に注目されて、10年前から京大フィールド科学研究センターの教授に就任しています。ここで世界ではじめての森、里、海を総合的に捉える研究がスタートすることになりました。その実践成果は見事に現れて、気仙沼の海は、かってないほど豊かになったそうです。まさに「森は海の恋人」だったのです。

 しかし、突然3,11の大津波が襲来しました。畠山さんは母君を亡くされ、事業の設備一切も流されてしまいました。海には生物の姿が全く見えません。海はもう死んだとあきらめていたところ、1ケ月たったある日、港に小魚が現れたので調べてみたところ、牡蠣が食べきれないほどのプランクトンが湧いていました。そこでボランテアの協力を頂いて、間伐材で筏を組みなおし、種牡蠣を吊るして養殖を再開して、一年半後つまりこの秋に収穫する予定でいました。ところがまだ一年もたたない4月頃に、何と筏が沈みかけていました。牡蠣が丸々と太っていたのです。品薄だった築地市場では大歓迎されたそうです。

 大津波では港も町も壊滅し、街の廃墟は地盤沈下して浅海になりましたが、そこにもアサリが大繁殖していました。大川上流の森がほとんど無事だったからでしょう。海が攪拌され、森の栄養が加わってより豊かになったのです。大災害でも漁師たちの海の恵みへの感謝は深まるばかりで、森から海へとつながる自然の力の偉大さを痛感したそうです。

 ところが復興計画では、また高い防潮堤をつくると聞きました。森からの栄養を遮断するばかりか、防潮堤が無力だった教訓をもう忘れているのです。それだけのおカネがあったら、全部を森の育成に向けて欲しい。いま漁師たちと大きな声を上げています。

 そのような活動を続けているうち、漁師なのになぜか国連の国際森林年を記念した「フォレスト・ヒーローズ」の日本代表に選ばれて、29日に5大陸から各一人という金メダルを頂きました。「森は海の恋人」という言葉の力が効いたのでしょう。受賞に際してその英訳に困っていたところ、思いがけないことに皇后さまから実に素敵なアドバイスを頂戴したのです。それはThe sea is longing for the forestというものでした。

 畠山さんの活動は、京大の森・里・海の連環学を大きく発展させる原動力になっています。また気仙沼に注ぐ大川流域の学童たちの学習指導も、すでに2万人を超えたそうです。その講演はすばらしく、会場での著書のサイン会には長い行列ができていました。

続いてのパネルデスカッションは、表題の間伐材の活用に絞って進められました。

 吉里吉里国の芳賀さんは、福岡県の漁師でした。奥さんの実家である大槌町に移住したところ、そこへ大津波がきて、すべてを失いましたが家族だけは無事だったので、地域に貢献したいと薪燃料確保のために自ら樵(キコリ)になりました。それまで見たこともなかったチェンソーを入手し、全くの手探りで林業を始めたのです。大槌町の山は一見して約7割が人工林で、海岸の国道からすぐ森になっています。漁師が山主ですが、ほとんどが1ha未満で、全く手入れをしていませんでした。漁師は山には関心がなかったのです。

 しかし被災して漁にゆけない漁師を説得して、林業の仲間を増やしてゆきました。ボランテアも加わり、塩害にやられた森から薪をとり、間伐も進めました。土佐の森の軽架線も導入したそうです。林業はそれだけでは黒字にできないが、漁師の副業として薪で小遣いを稼ぎ、森の恵みを海に施すことが狙いなのです。(井上ひさしさんも喜びそうですね)

 また岩手県の深澤さんは、早くから林業のBC材の活用のために、チップボイラーの普及事業を進めてきました。さらに総合的な施策を検討するため、土佐の森を視察した帰途に大津波に遭遇して、被災地での瓦礫の木材を燃料にする支援を始めました。震災直後の320日に新潟の企業から薪ボイラーが、4トントラックで届いたのです。(画像をみるとガシファイヤーでした)本体だけで、使い方もわからなかったそうですが、現地で工夫して仮設の浴場をつくりました。45日には2台目が来ました。とても良く燃えたので薪ボイラーの有効性を確信したのです。針葉樹が使えて間伐材の活用もできます。

 そこで県としてもチップより薪へ転換したいと、「森と人を結ぶ薪」をテーマに、自らを薪割リストとして、薪の利用の普及に努めています。現在、学校の給食センターで活用が始まりました。さらに林業支援には、木材の乾燥設備がどうしても必要です。また合板工場も、輸入材向けに海岸に立地していたため、ほとんど壊滅したのでその復旧にも薪ボイラーを検討しています。温水を中心に、できれば発電もと考えているとのことでした。

 さらに畠山さんから、三陸沖が世界3大漁場となっているわけは、単なる寒流と黒潮の出会いだけでなく、実は遠くアムール河から来るシベリアの森林の恵みがあるという壮大な話も出ました。これは一昨年にはじめて解明されたのだそうです。また森の腐葉土から生まれる、フミン酸とフルボ酸による鉄イオンは、キレート化することによって良い成分の吸収を促進し、有害な成分を排除する効果も発見されたという報告もありました。 

 このパネルデスカッションで、震災後の三陸復興への動きの一端を知ることができました。ここで熱く語られた「森は海の恋人」、「森・里・海の連環」、「漁師が森に入る」、「森と人を結ぶ薪」という地域の知恵が、この国の中枢にある憲政記念講堂をほぼ満席にしたことは、国を挙げての間伐材の活用と、森や自然を生かし、林業も漁業も再生する大きな流れにきっとつながることでしょう。意義の深いシンポジュームでした。「了」

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