「樹木と暮らす古代人」 樋上昇著 2016年11月1日 吉澤有介

- 木製品が語る弥生・古墳時代-
林業はいつ頃から始まったのでしょうか。著者は多くの遺跡を発掘して、弥生~古墳時代の里山の植生の復元に取り組んでいます。岐阜県の関市の北にある当時の集落の遺跡をみると、いずれも丘陵下の平地ではなく、傾斜が20度以上もある丘陵の斜面に、竪穴住居の集落を営んでいました。それが少しずつ時期をずらしながら集落ごと水平に移動していたのです。そのような集落が、広大な空閑地を挟んでいくつも連なっていました。
この集落群には、いずれも木製品を生産していた痕跡がありました。堅果類の水晒し遺構とともに木材や木製品の貯蔵庫があり、大量の原木、板材、そして作りかけの木製品が出土しています。つまりこれらの集落の周囲には広大な森があって、その木材資源を利用しながら、伐採した森の再生するペースに合わせて住居を移動させていたらしいのです。
この生活様式は、近世の木地師の巡回サイクルとそっくりでした。彼らは標高500mほどの山中に簡単な小屋掛けした居住地で、木材を伐採してはロクロを挽き、椀や皿、こけしなどを作っていました。その移動ルートはほぼ同じで、木が再生すると元の場所に戻ってきます。人々は、木材を持続可能な資源として大切に扱ってきたのです。
弥生~古墳時代で使われた木種は、ヒノキ科が最も多く、ついでマキ、コナラ、クリ、スギ、クヌギ、アカガシ、シイ、マツ、クスノキ、サカキと続いています。その木取りの方法は、縦挽きの大鋸が日本列島に伝わった15世紀以前の丸太から板を作るのには、クサビで割るしかなかったので、丸太のまま使うことが多かったようです。樹齢は15~30年が一般的でした。それも天然林の再生だけでなく、雑木林にして利用した例もありました。
一方沖積地にも人口の多い巨大集落ができ始めて、そこでは木材資源を外部から入手しており、運搬にソリが使われていました。その大量の保管場所では、「水漬け遺構」が見つかっています。現代でもある生木の樹液を一たん水中で水に置き換えて乾燥する技術です。福岡平野や畿内河内平野などでは、外部から木材を搬入し、貯蔵、加工していました。
木製品としては、掘削具、農具、工具、容器、運搬具などと多様で、祭祀用具もあります。本書では、それぞれを細かく分類して記載していますが、中でもアカガシ亜属を主とした鍬の変遷と伝播は興味深いものでした。北部九州型、山陰型、瀬戸内型などと地域ごとに違うのです。また首長の威信財としての木製高杯などでは、土器にある透かし彫りをしたのもありました。また精巧な儀仗もあって、卑弥呼の人物像を偲ばせてくれました。
弥生後期になると鉄器が現れ、木製品に鉄器の加工痕がみられるようになります。木材加工の工具は急速に鉄器に変わって、やがて専業の工人集団となってゆきました。ここで木材は山中の集落で伐採し、ソリ・舟・筏などで運搬され、平野で加工される近世の林業に近いかたちが生まれています。しかし多く用いられたアカガシ類などの大径木は、伐採のスピードに再生が追いつかず、涸渇が進んで次第に奥地に入ってゆきました。一方平地の集落の建築部材や日々の燃料などは、近辺に「里山」を形成して継続的に利用していたこともわかりました。まさに日本列島の「林業」の揺籃期だったといえるでしょう。「了」

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