「灯台の光はなぜ遠くまで届くのか」テレサ・レヴィット著 2015年12月5日 吉澤有介

1800年代のフランスでは、悲惨な海難事故が続いていました。イギリス海峡だけでも、毎年100隻近いフランス船が遭難したそうです。その大半が海岸の岩礁への座礁でした。灯台さえあれば避けられた海難だったのです。灯台は、最古の科学技術とされていましたが、その後2千年も全く進歩せず、光は弱くて危険を防ぐまでの力はありませんでした。
フランス革命からナポレオンの独裁、失脚、王政復古と激動の続いた1817年秋、パリに若い土木技師オーギュスタン・フレネルがやってきました。彼はフランス灯台委員会に特殊なレンズのアイデアを持ち込んだのです。それは、1枚の凸レンズを細かく分割して階段状に組み立て、光の屈折を応用して灯台の光を遠くまで届けるというものでした。ところが灯台委員会は、全く取りあってくれません。当時のフランス科学界では、光は粒子だとする説が主流で、フレネルの光は波と考えたこのアイデアを却下してしまったのです。しかしフレネルはあきらめず、エコール・ポリテクニークで1年先輩だった物理学者フランソワ・アラゴの理解と支援を得て、試作・実験にこぎつけました。そして委員たちの目の前で、彼の理論どおりに実験は見事に成功したのです。その明るさは、当時のイギリス製の反射鏡式の38倍、燃料油は1/2という画期的なものでした。やがてこのフレネルレンズは、フランス各地の灯台に相次いで導入され、ヨーロッパの、そして世界中の海を照らすことになったのです。折からのパリ万博では、まさに世界の脚光を浴びました。
本書では、フレネルの偉大な業績に至るまでの、苦闘の歴史を生々しく伝えています。当初猛反対した委員の中には、電流に名を残したアンペール、天体力学のラプラスもいました。光が粒子だとしたニュートンの学説は、それほど強烈だったのです。それに対して一貫してフレネルを支持したアラゴは、幾多の危難を越えて子午線の長さを測定した英雄でした。またフレネル自身も王党派の一家で、革命の波に翻弄されています。
フレネルのレンズは、量産の過程でもたいへんな苦労をしました。彼の求めたクラウンガラスは、当時唯一の大メーカーのサン・ゴバンでも、満足な品質は出来ませんでした。パリ郊外の小さなメーカーが名乗りを上げましたが、ここでも失敗が続き、高名な機械技術者ソレイユの応援でようやく開発が進みました。町工場が偉業を支えたのです。
フレネルレンズは、イギリスでもたいへんな反響を呼びました。岩礁の多いスコットランドは即座に注文し、その成果を見たイギリス王立科学アカデミーは、科学の発展に最も大きな貢献をした人物として、フレネルに栄えあるランフォード・メダルを贈りました。しかしそのとき病弱だったフレネルは、すでに死の床にありました。享年39歳でした。
フレネルの遺志は、同じポリテクニークに進んだ弟レオノールが継ぎ、ヨーロッパ全土から、さらに新興国アメリカに伝わりました。しかし当時のアメリカでは、高価な投資とみて躊躇したのです。その議会を動かしたのが、あのペリー艦長でした。その後起きた南北戦争では、灯台の争奪戦が勝敗を決めたといいます。1869年(明治2年)には、観音崎灯台にフレネルレンズが点灯しました。近代科学史でも、ひときわ光る物語でした。了

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上図はコルドーアン灯台のフレンネルレンズ

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