「クリの木と縄文人」鈴木三男著 2018年11月18日 吉澤有介

同成社2016年12月刊  著者は、福島県白河生まれ、千葉大学、東京大学大学院を経て東北大学大学院教授、同植物園長などを歴任、現在は東北大学名誉教授の考古植物学者です。初めて縄文時代のクリに出会ったのは1977年、東京大学農学部助手としての埼玉県の寿能泥炭層遺跡の発掘でした。
その後多くの縄文遺跡からもクリの発掘が続いて、ついに三内丸山遺跡で「縄文=クリ」の図式が決定的になり、著者ら多くの専門家による共同研究が始まりました。本書は、その壮大な研究成果の集大成となっています。図版も素晴らしい構成で、充実しています。

土器を使用した縄文時代が始まったのは、いまから約1万6千年前の「氷河期」まで遡ります。青森県外ヶ浜の大平遺跡で、最古の土器が出土しました。その土器に付着していた炭化物の放射性炭素年代の測定でわかったのです。その頃の森の様子は、水月湖の堆積物の花粉分析で確認できますが、青森は遠い北国ですので、これではわかりません。著者らは、約1万5千年前の十和田湖カルデラ噴火の埋没林を分析して、カラマツ、トウヒ、モミ属などの亜寒帯性の針葉樹林と確認しました。木の実などの食糧はとれなかったのです。しかしその時代にすでに土器が使われていました。何のためだったのか、今も謎のままです。

ところが、ここで急激な温暖化が始まりました。植生はコナラ、ブナ、クマシデ属に変わり、クルミ属も現れます。草創期の土器は、落葉広葉樹林での木の実の調理で、一気に普及したものとみられます。11,500年前には、さらに本格的な温暖化が進みました。

クリは、日本列島に古くから生育していましたが、最終氷河期にはほとんど姿はなく、ごく限られた温暖な場所に退避して、細々と生き残っていました。それが温暖化で表舞台に登場し、水月湖の花粉分析で14,000年前に現れて、縄文人と出会ったのです。クリの木の遺物は、13,800年前の宇都宮市野沢遺跡の住居跡から見つかりました。クリは、縄文人にまず用材として使われていたようです。その後、琵琶湖に近い粟津湖底遺跡から、貝塚に似たクリ塚が発掘されました。縄文早期の10,500年前に多量な実を食べていた最古の記録です。

クリには優れた特性がありました。①陽樹で先駆種なので、人間が森を切り開いた跡によく育ちます。②成長が速い。3年で実が食べられます。美味でしかも高栄養であり、毎年安定して収穫できる。③大木に育ち、木材が加工しやすく、耐久性があることなどです。

縄文人のイエは、総クリ造りでした。縄文中期の岩手県御所野遺跡の竪穴住居で、火災にあった炭化材を調査したところ、8割以上がクリ材だったのです。彼らのクリ材利用は、「住宅」だけではなく、三内丸山遺跡では、長さ32m、幅10m、建坪で100坪の巨大建物が発掘されて、それがすべてクリ材でつくられていたことがわかりました。その柱は、直径1m、高さ15mはあったとみられ、樹齢は100年と推定されました。この「三丸柱」の年輪から、生育環境が管理されていたことは明らかで、ムラ全体がクリ林の中にあったのです。

著者らは、石斧によるクリの伐採実験もおこなって、それが容易な作業であると知りました。

全盛を誇ったクリ林は、4,100年前から急速に衰退してゆきます。クリ花粉が消えてトチノキなどに代わり、三内丸山ムラは消滅しました。原因は今なお謎なのだそうです。「了」

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