「芭蕉という修羅」嵐山光三郎著 2018年11月2日 吉澤有介

新潮社、2017年4月刊 著者は、テレビのバラエテイ番組「笑っていいとも」などで、すでにおなじみですが、本職は編集者・作家です。とくに中世文学に造詣が深く、「悪党芭蕉」では泉鏡花賞、読売文学賞を受賞しました。その後も芭蕉に迫って「ほそ道」を実体験し、関連文書をさらに深堀りして、本書では芭蕉の実像が危険に満ちた修羅であったことを突き止めています。

芭蕉が伊賀上野から江戸に出たのは寛文12年(1672)、29歳のときでした。それは藤堂家に仕える水道工事のエキスパートとして、江戸小石川の神田上水補修工事を差配するためでした。当時の江戸は人口が増え続け、元禄のころには約70万人に達していました。同時代のパリは53万人、ロンドンは55万人、ウイーンは1,5万人でしたから、江戸は世界一の大都市でした。その飲料水の確保は不可欠で、土木・水道技術に優れた藤堂藩に幕命があったのです。俳諧師として江戸にきたというのは、芭蕉が有名になってからの作り話でした。

芭蕉は、寛永21年(1644)に、伊賀上野赤坂町に松尾与左衛門の次男として生まれました。もと福地家で、信長が伊賀へ侵攻したときすぐに従ったので、徹底抗戦した柘植一族に恨まれ、松尾と名を変えて赤坂に隠れました。のちに徳川の世になって、進駐してきた藤堂家に召し抱えられたのです。裏切り者の福地の残党であることは秘密でした。命が危ない。

伊賀は俳諧が盛んで、主君の藤堂新七郎も「蝉吟」と称し、京の俳諧宗家「季吟」の高弟でした。芭蕉は13歳から近習として仕え、愛寵されて「宗房」の名を賜り、大きな影響を受けます。芭蕉の教養の源泉でした。しかし主君「蝉吟」は早逝します。藤堂家は、芭蕉を水道工事人として江戸に送りました。当時の大老酒井忠清は藤堂家の縁戚で、水道技術は軍事機密でしたから、水路やサイフォンなどを熟知した芭蕉は打ってつけだったのです。

水道工事の施主は町名主で、芭蕉はその期待以上の仕事をしました。町名主の小沢太郎兵衛は芭蕉を屋敷に住まわせましたが、大の俳諧愛好者でした。そのサロンで、芭蕉は実力を発揮したのです。水道工事請負は高収入で、芭蕉は経済的にも恵まれて4年が過ぎました。

ところが延宝4年(1680)、将軍家綱が40歳で没するや、すべての工事は中止となり、5代将軍に綱吉が就任すると、酒井大老は粛清され。芭蕉も失職して深川に逃れます。俳諧のサロンは、隠密のたまり場でもあったので、この政変は大きな危機でした。「桃青」と称した芭蕉は、伊奈代官屋敷内に隠れましたが、すぐに八百屋お七の大火で焼け出されました。酒井大老に代わった堀田正俊は殿中で稲葉正休に刺殺されて幕閣が揺れ、稲葉に縁のあった芭蕉は危険な江戸を離れます。「野ざらし紀行」で生気を取り戻した芭蕉は、西行に傾倒してゆきました。創作欲に火がついたのです。しかし弟子たちの建てた第2芭蕉庵では極貧の生活でした。そこで蕉門が集まり、20番勝負の「蛙合わせ」を興行しました。その発句が「古池や—」だったのです。深川はまだ焼け跡で、泥の水たまりがあり、飛び込む蛙は、火に追われた芭蕉自身の姿でした。「古池や—」は寂びではなく修羅の句だったのです。古池には時間の経る意味も込められていました。芭蕉の名声は上がりましたが、蕉門はまた諜報機関でもありました。曾良もその一人で、「ほそ道」は公用の旅だったのです。「了」

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