ニュートンの生誕地を訪問 2014年5月23日 荒川英敏

  ロンドン便り その35

昨日、英国が生んだ偉人の一人でもある、アイザック・ニュートン(以下、ニュートン)の生誕地を訪問しました。英国に係わって40年以上になりますが、一度も行った事がなかったので、見るもの、聞くもの全てが新鮮でした。これまでに、ニュートンに対する知識は微々たるものでしたが、ニュートンのその偉大さを認識する共に、英国の偉人が育つ環境が垣間見えた様な気がしました。

ニュートンは1642年にリンカンシャーの寒村、ウールスソープ・バイ・コルスタワースのウールソープ・マナー(荘園))と呼ばれている広い土地を持つ裕福な農家に生まれました。生まれる数ヶ月前に同名の農夫だった父親を亡くし、その後、3歳の時に母親が再婚で家を出た為、ニュートンはマナー・ハウス(荘園主の邸宅)の主として祖母に育てられました。

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  ウールソープ・マナーの全景(中央:マナーハウス)

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  ニュートンが生誕したマナーハウス、りんごの落下を見たのは2階の右の窓

  子供の頃から聡明だったニュートンは、地元のグラマースクールを卒業して、1661年にケンブリッジ大学のトリニテイ・カレッジに入学しました。ここで「ルーカス数学講座」の初代のバロー教授に出会い数学、力学、光学を学び1669年に27歳で2代目の教授となりました。
ちなみに1980
年、17代目教授には、世界的に「車椅子の物理学者」として有名なステイーブン・ホーキング博士が就任され、2008年まで勤めています。
ごぞんじの様に、ニュートンは数学、力学、光学の三つの分野で、顕著な業績を残しており、主なものは、万有引力の発見、二項定理の発見、微分積分法の発見、力学の3つの法則の確立、プリズムを使い光の分光構成が7色であることの発見等であります。
  ニュートンが大学に入ってからまもなく、ヨーロッパではベストの大流行が始まり1665年頃からロンドンでもペストが大流行し、地方にも広がり、小さな村では住民全員が死亡のケースもありました。ケンブリッジの町も例にもれず流行が始まり、ケンブリッジ大学も閉鎖されました。1665年、ニュートンはやむなく、故郷のウールスソープに戻り、避難をしながらのゆったりとした田舎暮らしを楽しんでいた様です。1666年までの僅か2年余りの間に、かねてから思考していた様々な事象の発見が行われました。それはニュートンが22歳から24歳の頃でした。
 万有引力の発見に至った経緯については、様々な説がある様です。
ニュートンの生誕地を管理している英国のナショナル・トラスト(歴史的な城やマナーハウス、庭園、公園等を管理する団体で、寄付で成り立っている)の説明員の話では、ニュートンがまだグラマースクールの学生の頃、2階の自室から窓越しに見えた、庭のりんごの木からりんごが落下した瞬間を見て、「なぜりんごは木の真下に落ち、真上に、または横に行かないのか?」と疑問を持ったそうです。
この疑問は大学時代も持ち続け、結局ペストの大流行で故郷に戻った時に、ゆっくり考える時間の中で、疑問は解けたそうです。
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階の窓越しに見えるりんごの木(左側) りんごの木とマナーハウスの2階の窓

  説明員によると、ニュートンが見たと言われる庭の「りんごの木」は1630年頃に、父親が家を建てた時に植えられたもので、今でも当時の木のままで、樹齢400年近くになります。
この「りんごの木」は、2002年のエリザベス女王戴冠50周年記念の時に、発表された英国の名木50に選ばれています。
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  りんごの木が英国の銘木50に選ばれた時のエンブレム 

英国の田舎は緑豊かな里山を形成しており、季節ごとの花々の美しさ、小鳥のさえずり、きつねやうさぎ、りす等の小動物たちが多く生息する環境になっています。きっと、ニュートンの時代でも今と変わらぬ環境だったと思われます。この様な豊かな自然環境と一体化して生活すると、真理を追求をする気になり、多くの偉人を輩出する素地が出来ているのではないかと、思えてなりません。(了)

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