「漱石のこころ」赤木昭夫著 2017年2月28日吉澤有介

-その哲学と文学- 岩波新書2016年12月刊
これはまさに目からウロコの一書でした。タイトルでおわかりのように、著者は夏目漱石という作家の精神と、その代表作である「こころ」という作品で展開される哲学と文学を掛詞にして論じていますが、本書によって漱石への見方が一変すること請け合いです。
なぜこれまでの歴代研究者や評論家が、漱石のこの本意を理解できなかったのでしょうか。それは漱石が作品において実に周到に配慮し、表現に特別の工夫を仕込んでいたためでした。主題の性質を明快に書くと、当局の機微に触れ、発禁処分を受ける恐れがあったのです。漱石の作品は、当時の「時代精神」を哲学的に痛烈に風刺したものでした。
その事例を名作「坊ちゃん」で見てみましょう。これは一般には、漱石自身の松山での体験をもとにした、正義感によって悪玉を懲らしめる痛快な物語として読まれてきました。しかしそこには秘められた記号があったのです。まず出だしから隣家の「山城屋」の息子が悪さをして、坊ちゃんに手痛くやられます。この「山城屋」が、後の松山の宿の名前でもありました。これで当時の知識人はすぐわかったはずです。山城屋とは、もと奇兵隊員の野村三千三で、後に商人となり、陸軍中将だった山県有朋と陸軍省で大疑獄事件を起こして自殺していました。巧妙にこの事件を乗り切った山県は、参謀本部の統帥権を創設し、議会や首相を超えて天皇の大命を得る権力を握ったのです。その象徴的な話がありました。天皇の恩寵をよいことに、何と京都の自分の別邸に御所の松をせびりました。
こうなると「坊ちゃん」の構成が見えてきます。校長の狸は山県、赤シャツはハイカラ好きで女たらしの西園寺公望、太鼓持ちの野だは山県の腰巾着の桂太郎に決まるでしょう。「ターナーの松」のゴマすり、赤シャツのマドンナへの横恋慕まで揃っています。漱石による、権力者たちの二重道徳への厳しい批判は、滑稽から風刺へと転化してゆきます。明治39年当時の政治・社会情勢は、漱石が書かずにいられないほど逼迫していたのです。
「坊ちゃん」の発表から2年半後、「三四郎」の冒頭で、上京する車中の三四郎に、広田先生は「この国は滅びるね」と言います。37年後、大日本帝国は敗北しました。漱石の驚くべき洞察力は、その文学のあり方からきています。漱石はロンドンで「文学論」の構想を固めました。そこで見た格差社会の実情は、日本の将来への危惧となり、文学は意識の流れで、「時代精神を表す」としたのです。その方法論は、ロンドンでの化学者池田菊苗との交流で生まれました。物質がすべて分子から成り立ち、分子は原子から成り立つとした池田の話は漱石を強く刺激し、池田の発明した「味の素」に対して、漱石は「文学の素」を発明したのです。漱石には理系の発想がありました。文学は意識Fと情緒fから成り立つとしてF+fという記号で表現し、さらに「時代精神」を図解して考えたのです。進化論にも興味を持ち、社会科学にも立ち入りました。理系への関心は、蔵前にあった東京高工での講演にも表れています。文学論はピアソンの「科学の文法」に沿い、文芸上の真と科学上の真を追及していました。そして「こころ」は、哲学小説であると同時に社会小説であり、百年にわたる気宇壮大な悲劇、日本近代史を撃つ悲愴な証言だったのです。「了」

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