ジャガイモのきた道   山本紀夫 岩波新書

  栽培面積では世界第4位のジャガイモ、南米アンデスで栽培種として誕生以降世界にどのように伝わっていったか。
戦争や飢饉、文明の発展等世界の色々な場所でドラマが展開してきた。

ジャガイモの故郷
中央アンデスの高地 4000m位のところ。 
緯度の低い熱帯地域であるため雨季と乾季がある。
長い乾季に耐えて生きるため地下茎や根に養分を貯蔵する形の植物として存在していた。

原種は小指ほどの大きさで毒(ソラニン)を含むため食べられなかった。

栽培種への工夫
長い時間をかけて食料にする努力が続けられた。
まず毒の少ない品種を探し出すこと。
次は毒を抜く方法を考えだしたこと。
野天に放置しておくと凍結と解凍を繰り返す。
これらを足で踏み潰ぶして水分を除去する。
さらに水さらしして乾燥したものを作った。
こうすると繊維が破壊されてその組織に内蔵されている毒が除去できた。
現地では毒抜きのこれを「チューニョ」と呼んでいる。

いつまでも保存が利くのと軽くて運搬し易いので重要な食料に変化した。

山岳文明を築いたジャガイモ
考古学や歴史では穀物栽培だけが文明を生んだとされるが現地調査の結果ではジャガイモこそがアンデスの山岳文明を生んでいた。
ティティカカ湖畔のティワナク神殿は巨大な石でできている。
太陽の門は10トンに及ぶ石に彫刻が施されている。
200haに及ぶ広大な居住区にはBC500年ごろ35万人におよぶ人口をかかえ繁栄した。
都市を支えたのはジャガイモの集約農業、リャマ、アルパカの集約的牧畜と湖の資源利用であった。

しかしAC10世紀には大規模な乾燥化により崩壊してしまった。

インカ帝国
スペインが進出したときの首都クスコ(人口20万人)、総人口1千万人以上の大国家であった。
彼らが農耕技術で驚いたのは「灌漑」と「階段耕作」であった。
高地ではジャガイモ、低地ではトウモロコシが栽培され主食はジャガイモであった。

ヨーロッパ人のジャガイモ発見
インカは1532年スペイン人に征服された。
トウモロコシはすぐ知られたがジャガイモは中々食料として認められなかった。
聖書に出てこない食物であるというのも好意的に受け入れられなかった一つの理由であった。

1570年代にスペインに渡って世界中に広まっていった。

戦争と共に拡大したドイツのジャガイモ
戦争で畑が踏み荒らされても被害が少ない。
戦争が激しくなる(30年戦争等)に従いこの栽培が広まっていった。
飢えから人を救う食料として18世紀末から増えだした。
一人当たりの年間消費量は1850年:120kg1890年:300kg、20世紀には国民食に定着した。
ドイツ料理といえばジャガイモである。

アイルランドの場合
17世紀畑作に受け入れられた。
北緯50度を越え寒冷地に加えて土壌が痩せていたがジャガイモは良く育った。
エンバクと酪農の国だったが冬の食べ物が無くて困っていたがこれをジャガイモが救った。
栽培が急拡大して18世紀半ばには4.5kg/日人の消費量でジャガイモが唯一の食料になり、「ジャガ好き国民」になっていった。
人口も急拡大し1754320万人が100年後の1845年には820万人になった。
ところが1846年イモ畑に疫病が発生して9割がかかってしまった。
餓死者100万人がでて国民は新天地を求めて米国に移民した。
移民した米国では彼らはカトリック教徒のため迫害やいじめを受け続けた。

アイルランドの悲劇
ジャガ好き国民のため飢饉のとき代替作物が全く無かった。
何種類かあるジャガイモの中でやせ地に育つという単一品種だけを栽培したため疫病の被害が莫大だった。
多品種、多種食物といったバラエテーに富んだ食料配分にしないと災害や病気といったアクシデントに対処できなくなる。
この不作で国外脱出で人口は440万人に激減し耕地は放牧地になってしまった。
アイルランド系の人口は世界に7000万人もいてユダヤ人と同じ運命をたどっている。
米国で成功した数少ない例はケネディー大統領一家である。

ヒマラヤのジャガイモ革命
19世紀半ばにネパールに入ってきた。
シェルパの故郷ソルクンプ地方の耕地でもよく育つことが分かった。
大麦やソバの栽培からジャガイモに変ってきて食生活が豊かになった。
生産が増えると共に栄養価が高いので人口が増加した。
1836169世帯だった地域が1957年、596世帯にまでなった。
チベット地区からの転居する人が多かった。
村も豊かになり僧院など文化施設も充実したのはこの時期からである。

これはこの地方だけの現象でなくネパールの国全体に好影響をもたらし高い山の上までジャガイモが植えられて人口を支えている。

日本の場合
1500
年代の終わり頃にはオランダ人が持ってきて長崎から各地に広がっていった。
西欧各地では中々受け入れてもらえなかったジャガイモも日本では伝来のヤマイモやサトイモがあったため簡単に受け入れた。
江戸時代後半には北海道や東北で盛んに栽培されデンプン工場が生まれた。
ジャガイモは水分が多く運搬に苦労するのと腐りやすく芽がでてくるため保管上の問題もあったためデンプン加工が考えだされた。


     記      福島 巖

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