里地里山文化論 養父志乃夫 著 (社)農山漁村文化協会

著者は1957年大阪市生まれ和歌山大学教授(自然生態環境工学)です。
まず里地里山の定義を
「水と空気、土、カヤ場や雑木林から屋敷、納屋、牛馬小屋、畑、果樹園、
竹林、植林、溜池、小川、水田、土手、畦など一連の環境要素が一つながり
になった暮らしの場」
とし、さらに海岸や湖沼の近くでは、里海、里湖を加えている。

この暮らしの場はヒトだけでなく多様な動植物の生態系まで含んでいる。
 里山という用語は、一般に京大の四手井綱英教授の造語とされているが、
江戸時代の尾張藩の文書にすでに出ているという。
なぜこの里地里山が大切なのか、これは植生としてだけではなく、日本人の
在り方に深く関わっていることを、その発祥の時代まで遡って概観している。
1318万年前のリス氷期には中国大陸と日本列島は直接つながっていた。
さらに約712千年前のウルム最終氷期には、間宮海峡も津軽海峡も大陸
と地続きだったから、動植物もヒトも列島に移動できて、今日の生態系の骨
格が形成された。この最終氷期には本州の大半はまだ落葉広葉樹林で、照葉
樹林帯は九州沿岸部にある程度だったがその後の縄文海進とともに北上した。
列島は大陸から分離し、約6000年前の縄文中期には現在よりも平均気温は
23℃も高かった。
照葉樹林は増えたものの、関東や東北では暖帯性落葉広葉樹が広がっていた
ので、その木の実が豊かでこの時代の人口の増加を支えた。
おおよそ26万人いたと推定されている。世帯数で約4万戸はあったから、燃
料や焼畑耕作などで、かなりの立木を伐採したとみられる。
このころから二次林が形成されたらしい。
陽光の必要なカタクリなどの春植物が生き延びたことはその証だという。
縄文里山の誕生である。
しかし縄文晩期の約3000年前には、気候が寒冷化
して植生が変わり、木の実がとれず総人口は8万人弱に減った。
一方大陸でも気候不順に「春秋戦国の乱」の難民も加わって、この時代に
おもに長江中流から、おおくの人々が稲作や各種の作物とともにボートピ
ープルとして日本に渡来した。
朝鮮半島経由もあって、奈良時代初期までの1千年間に150万人が渡来した
とみられ、ここに稲作を基礎とする弥生式文化が形成された。
当時の稲作はすでにかなり完成後が高く、生産性は反当たり3400kgも
あったから、畑作技術を持ちながら寒冷化に苦しんでいた縄文人に素直に
受け入れられて、弥生文化は次第に北上した。
この小区画水田による弥生式農法は、我が国の水田耕作の原型となり、
その基本は昭和30年代まで続くことになる。
水田は灌漑用水路を通じて、1年をサイクルとする淡水魚などの生物相を
豊かにし、稲作民の栄養を支えた。
稲作文化の起源は長江中流とみられ、
日本文化の形成には雲南起源の照葉樹林文化より強い影響をもたらした。
自然環境と巧みに付き合って生態系を育む暮らしが、現代まで続いてき
たその原型は長江中流にあったことを、現地を調査した著者は確信した
という。水田を取り巻く動植物が、日本の里地里山に酷似していたので
ある。これらはヒトの移動とともに史前帰化していった。
著者はさらに青島から遼東半島、朝鮮半島にかけて綿密な調査を行い、
里山の暮らし動植物などすべてがほとんど共通していることを確認して
いる。
水田稲作の導入と拡大は、自然環境と共存しながら循環型社会の
基礎を作り上げていった。
水田面積は平安時代には100万ヘクタール(a)を越え、米の生産量は
100万トンに達した。
明治の初期には面積は250万ha、米は470万トンにもなっている。
この間の人口も450万人から約3000万人に増えた。
水田の肥料には弥生時代から近年まで、草を刈り敷くやり方が中心であ
った。そのため水田面積の10倍の草刈り場が必要とされたという。
寺社建立のための森林伐採も進んだから、過伐は常に大きな問題となって
いた。そこで里山からの落ち葉に家畜やヒトの糞尿などの有機肥料などの
活用が工夫されて、昭和35年頃までその循環型農業が続いたのである。
人口の増加は燃料の需要を拡大した。農家1戸当たりの薪炭消費量は年
34トンであり、そのために必要な里山は11.2aと推定されるとい
う。著者らは全国18か所の農家でヒアリングしてそのデータをとって確か
めている。
このような自然循環での暮らしも、昭和25年に人口が8000万人
を越えたあたりで、すべての衣食住を賄うことが困難になった。
里地里山の環境に負荷をかけすぎると、また収奪が限度を超えると、災害
や凶作で生命、生活が犠牲になる。
古人はその戒めに山の神、田の神を崇拝し、大切にしてきた。
これらの教訓が、人々に生きてゆくための知恵と技を継承させてきたので
ある。

里地里山に共存する生態系や動植物、水、土など、自然環境を構成する
要素には、無用物は何もない。
持続的な循環型社会を見直す上では宝の山である。
そこに暮らす里人は、次代に里地里山文化を伝え、命、仲間、労働の大切
さを教える先生でもあった。
昭和30年から40年代にかけての里山の変貌について、著者は実に丹念に
実地調査を行い、野生動植物の生態やヒトの営みについてのデータを収集
している。
著者はそれらのデータをもとに、伝統的技術による里地里山の修復と生
態系の再生についての実験を開始した。
その範囲は北海道の札幌市の放棄水田、放棄林の修復から始まって、和歌
山、福井、新潟、埼玉、兵庫、広島にわたっている。
水田のあぜの修復、間伐や芝刈り、落ち葉掻きなどの手間は相当のもので
はあったが、生態系は着実に回復したことを検証した。
ヒトと動植物が育んだ循環型里地里山文化は、持続的ライフスタイルを再
構築する上での大きなヒントを与えてくれた。これからどのように暮らし、
どのように子孫に継承してゆくのか、ここでいま一度、昭和30年代までの
循環型の里地里山文化を見直し、現代的な視点から応用できる技を生み出
す時期にきている。
里地里山は単なる懐かしさから、これからの自然と人間との関係を探るた
めの指標に変わったのである。
                 要約 吉澤有介

カテゴリー: バイオマス, 気候・環境, 自然 パーマリンク

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