「トチ餅は東京産」濱屋悦次著2016年4月26日 吉澤有介

— その味は遥かなる縄文とのきずな —
コトの始まりは、ある日の新聞に出た「霞が関でトチの実を無料配布します」という記事でした。かねてから縄文人の食文化に関心があった著者は、早速この機会を捉えて、トチ餅をつくる計画を立てたのです。霞ヶ関官庁街のメインストリート桜田通りの街路樹がトチノキで、毎年たくさんの実がとれていました。8月のある日、待ちかねた一家は総出で約10kgのトチの実を貰ってきました。ところがその「アク抜き」は生易しい技術ではなかったのです。著者は、もと農水省の研究者で植物病理学の専門家です。それでも試行錯誤は数年にも及びました。本書はそのトチ餅完成に至る研究と努力の貴重な記録です。
トチノキは日本固有の種で、落葉性の高木、ブナ林帯の渓流に沿った湿潤な肥沃地を好みます。本州の北・中部に多く、秋9月ころになると、イボのある径4センチほどの球形の実をつけ、熟すと割れて1~2個のクリそっくりの種子を出します。しかしそれは猛烈に苦くて、そのままでは食べられません。トキノキと同属にマロニエがあり、正式の和名もセイヨウトチノキといいます。このほうが皆さんにはおなじみでしょう。しかしこの実はトゲがあり、種子はもっと苦い。とにかくトチノキの種子には猛烈な苦味があります.
植物は、動物たちの食害から身を守るために、苦さや渋みを蓄積する自衛策を講じて進化してゆきました。そのため縄文人は、植物体の栄養分を残し、好ましくない成分だけ除く「アク抜き」技術を開発したのです。そこには土器の活用が大きく貢献していました。
縄文時代の初期には、狩猟と漁労、そのまま食べられるクリやクルミを主に、軽くアク抜きできるカシやナラなどのドングリ類で人々は生活していました。とくに青森の三内丸山遺跡ではクリの栽培が盛んでした。気候も温暖で、人口は東日本を中心に順調に増加して、中期のBC4~2千年前にはおおよそ26万人にも達したとみられます。
ところがその後、日本列島は急激に寒冷化し、東日本の人口は、晩期までにほぼ1/4までに減少しました。戦乱は全くなかったので、大飢饉のためと思われます。最大の原因はクリの不作でした。クリ病原菌の蔓延もあったようなのです。一方トチノキはむしろ増えていました。縄文人は、それまで苦すぎて食べていなかったトチの実のアク抜き技術を必死に探索しました。トチの実には、サポニンという有毒成分が含まれています。木灰を加えて煮沸するなどの工夫で、ようやくアク抜きに成功して深刻な食糧危機を乗り越えたのです。また乾燥したトチの実には、数年も保存できるという大きな利点がありました。
縄文後期の遺跡には、トチの実のアク抜きをした多くの施設跡が残されています。埼玉県川口市にある赤山陣屋跡には大規模な処理場遺跡がありました。ここは歴代の関東郡代伊奈氏の館があったところです。著者は全国の民俗学情報を集めましたが、アク抜きの具体的な方法は殆ど伝わっていませんでした。自分で手探りしながら実験しています。困ったのは良質な木灰の入手で、あとは皮を剥いた実を数日間水で晒し、約1時間茹で、熱いうちに濃い木灰液に浸して、そのまま1~2昼夜放置したらアクが抜けたのです。餅米と混ぜて搗いた東京産トチ餅の鄙びた風味は、予想を超えた美味しさでした。

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「澤田吾一の業績」
上にご紹介した「トチ餅は東京産」濱屋悦次著のなかで、著者は、縄文人の人口の推移について、小山修三とともに、先行した研究者として「澤田吾一」をあげています。ここでその業績と経歴を、すこし詳しく追加要約してご紹介しましょう。
その主著は、「奈良朝時代民政経済の数的研究」(1927年)でした。
この本は、古代の人口や物産を具体的な数値で論じるとき、絶対に避けては通れない最重要文献なのだそうです。著作の内容は奈良時代となっていますが、全国規模で精緻な数値が示されているので、それを基点に前の時代も後の時代も推計できるのです。断片的な資料から全体像を復元する統計学の手法が画期的でした。日本に数理歴史学の道を拓いたと言って過言ではありません。
澤田が計算したのは、奈良時代の人口だけではなく、水田の面積、収量など多岐にわたっていました。律令制度で整備された戸籍や徴税、それに徴兵などすでに散逸した史料を、ごく僅かな断簡から見事に復元したのです。そこで示された奈良時代の良民の全人口は約560万人でした。
当時の男性農民のコメ収支についても、口分田は2反(現在の2,4反)で、平均的な中田の反当たり収量は40束なので、全部で80束になります。計算すると1人1日4合強になりますが、救荒備蓄や生活用品購入で、実際に消費できる量は、2/3以下に減ってしまいます。つまり1/3が不足するので、その分を雑穀などで補わなければなりません。当時の主食の量は、「長屋王木簡」などの記録によると、男女老弱に関わらず、一人1日4合と塩Ⅰ勺が、生きてゆく上での最低の必要量と考えられていたことがわかるのです。
このような大きな業績を挙げた澤田吾一は、もともとは歴史学者でなく、数学者でした。
その経歴が凄いのです。 1861年(文久元年)美濃国に生まれ、中学卒で上京、陸軍参謀本部に勤めながら独学で数学を学び、いくつか論文を発表して第一高等中学校(旧制一高の前身)の教授になる。4年後、東京帝国大学物理学科3年に編入学して卒業(満30歳)、以後、第四高等中学校(旧制四高)、陸軍幼年学校、東京高等商業学校(現一ツ橋大学)などの数学教授を歴任して1917年(大正6年)56歳で退官。さらに3年後、満59歳で東京帝国大学国史科に入学、3年後大学院に進みました。
そこで多くの史料を駆使して学位論文を書き上げましたが、内容があまりに数学的で、文学部の教授会では理解できず、受理されませんでした。
それを一般向けにして冨山房から出版したのが、先にあげた「奈良朝時代民政経済の数的研究」でした。東京都立図書館にあるそうです。澤田吾一は1931年(昭和6年)3月に肺炎で亡くなりました。享年70歳でした。 「了」

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