「森林飽和」太田猛彦 2013年2月1日 吉澤有介

 –  国土の変貌を考える –

 本書では、現在の日本列島が、古来からの「森林の豊かな国」という一般の見方を、そうではない二十世紀後半の特別な事態とみて、新しい「森林の時代」と真正面から向き合うことによって、私たちが自分の住む国土をどのように創造してゆくかを考えています。

 国土の管理は、決して行政だけの仕事ではありません。森林から河川、海岸を含めた国土環境は、文字通り私たちのものであり、影響を与える一人としてかかわりを持つ必要があるのです。その日本列島の国土は、どのように変遷してきたのでしょうか。3・11の東日本大震災の津波は、陸前高田の海岸の松原を一気に飲み込んでしまいました。ここは典型的な海岸防災林だったのです。大きな痛手を受けましたが、クロマツの林の減災効果は明らかでした。日本列島の海岸防災林は、江戸時代から多くの人々によって、砂浜の恐ろしい飛砂を防ぐために営々とつくられてきたのです。ところが近年は、どの海岸でも砂浜が波の侵食によって、急激に縮小したり消えたりしています。その要因は、海岸の地盤沈下や護岸工事のためなどという説もありましたが、実は山地の森林の様相の変化にありました。その結果、砂の堆積自体が激減していたのです。

 日本列島では、縄文時代の人たちは豊かな森の恵みとともに生きていました。それが弥生時代からは、森林を切り開いて、家や社寺を建て、煮炊きをしながら鉄をつくり、陶磁器を焼き、製塩をするために、山林を盛んに伐採するようになったのです。長い年月のうちに、山はすっかりハゲ山になってしまいました。土壌は侵食され、大量の砂となって川から海へと運ばれて砂丘を形成し、飛砂となって海辺の田畑や人家を襲いました。そこで人々が考えたのが、クロマツを植えた防災林だったのです。人工林のはじまりでした。

 日本の山地がいかにハゲ山であったかは、いろいろな史書や、江戸時代の浮世絵で知ることができます。とくに西日本では、花崗岩がむき出しになって風化し、大量の砂が生まれました。土壌が痩せたので、貧栄養に強いマツだけが辛うじて生き残ったのです。日本的風景として好まれたマツの林は、森林収奪の結果でした。人口の増加とともに山の荒廃は進み、大洪水や山崩れが頻発し、砂はどんどん海岸に堆積してゆきました。

 江戸時代になると、さすがに幕府は1666年に「諸国山川掟」を布令し、各藩も治山治水に努めるようになりました。植林、禁伐、魚付林の保全、河川改修、砂防対策などです。しかし山林の荒廃はさらに進み、江戸末期から明治の中期がハゲ山のピークでした。
 ここでようやく治山三法が施行されて、はじめて森林の再生が始まったのです。その後の経過は、皆さんご存知のとおりです。とくに戦後の拡大造林で急速に緑は戻りました。しかしそれは極めて不自然な回復で、新たな荒廃を招いています。深層崩壊が多発し、砂浜が消えました。あまりにも急激な変化です。人工林の適切な管理はもちろんですが、奥山や里山のあり方を考え、生物多様性を守りながら、国土全体を健全な姿に構築してゆかなければなりません。河川にしても、ある程度砂を流す必要があるでしょう。これは新しい「森林飽和」環境なのです。海岸林からの発想は、とても刺激的なものでした。「了」

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